気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

気楽非活の思想的変遷

 

 

 

いつも皆さん、ありがとうございます。

 

 

 

さて、このブログを長く読まれている方なら、私の思想的な遍歴は多くご存じのことと思います。

かつて創価学会のバリバリの活動家だった私は、広宣部のメンバーになり、諜報活動や大石寺系教団信徒との対論に駆り出される中、徐々に創価学会、そして大石寺系の教義の欺瞞に気づかされました。

現在では、日蓮法華経そのものを批判し、そもそも鳩摩羅什訳の法華経の構成に問題があり、また日蓮の思想そのものは仏教ですらないという立場に立っています。

 

 

 

現在は初期仏教の立場から、一切は十二処十八界の束に過ぎず、真実や法の常住を求めることは釈迦の教えと反するという、龍樹(ナーガールジュナ)の『中論』の立場に立ち、『十住毘婆沙論』や親鸞の『教行信証』から、念仏思想を求める信仰者として孤立の道を求めています。

 

 

 

私は親鸞法然源信の著作などを読むようにしていますが、ただ別段浄土真宗等のお寺に所属しようという気は全くありません。寺に参拝する気もありませんし、檀徒や信徒になる気もないです。

信仰者というのは個人の力で求めていけるものだと今は確信しているものなので、なんら教団のお坊さんに教わろうなんて思っていません。まして大石寺日蓮宗系の僧侶さんにわざわざ教わろうとは思っていません。

大石寺系の御住職の中には博識の方もおりますが、多くは富士学林の教義かぶれになってしまいまして、幅広く仏教を学ぶことができない。だいたい後世の創作に過ぎない戒壇本尊をどうして教義の中心としなければならないのか理解できません。挙句の果ては布教活動も信徒にやらせるばかりで自分たちでやる気さえない。

 

 

 

創価学会の幹部などそれ以下も以下、もはや問題外でございまして、そもそも日蓮の遺文を知らない。御書をろくに読んだこともない人が大半です。

大石寺26世堅樹院日寛書写の曼荼羅を拝んでいるのに、日寛の著作ももはや知らない。

挙句の果ては弘安2年造立とされる戒壇本尊の存在も知らない。

その写しという教義で固められているはずの日寛本尊、そして創価学会本部の常住本尊(大石寺64世水谷日昇書写)を拝むということの矛盾を彼らが全く理解できていない。

 

 

 

そしてこのブログでしばらく日蓮の遺文、また富士門流の文書をひたすら読もうと心がけました。

幸いに富士門流系の文書については、広宣部時代に手に入れた富士宗学要集が全10巻そろっていましたから、ここから手当り次第に読んではブログで書いていました。また広宣部時代にさまざまな文献を集めていたり、史料を整理したりしていましたから、読むことに関しては苦になりませんでした。

さほど丹念に読みこめた自信もありませんが、読んでいてわかったことは、いかに大石寺が自分たちの権威性を高めるために興門流の他山の文書を利用していたか、という彼らの偽善性です。

『御本尊七箇相承』と戒壇本尊との相貌の矛盾、『本因妙抄』本文の改竄、北山本門寺に伝わっていたはずの二箇相承の換骨奪胎、『日興跡條條事』写本の改竄、その他多くの文書の公開拒否……これでは信じるに足るものなどありません。日蓮宗から冷やかにみられているのもよくわかるというものです。

 

 

 

「弘安2年の戒壇本尊は日蓮の造立ではない」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/01/31/000248

 

 

 

日蓮の遺文については、『昭和新修・日蓮聖人遺文全集』(平楽寺版)を入手して読み始めましたが、まあ……創価学会版・大石寺版の遺文の改竄のひどいありさまといったら大変でした。

こらえていろいろ読んでいくうちに気づかされたのは、そもそも日蓮の発想そのものが国家の奉じる宗教への主張だったということです。

立正安国論』で明らかですが、日蓮は国家の加持祈祷に正しい教えを用いるべしと考えていました。そしてそれが法華経であり、なかんずく自分自身の南無妙法蓮華経なのだという立場です。

この発想そのものがもはや仏教ではありません。法華経安楽行品では信仰者は為政者や大臣、王族に近づいてはならないと戒められています。それに聖徳太子の『法華義疏』でも信仰者は為政者に親近してはいけないとされています。

つまり日蓮国家主義的発想そのものが儒教的な発想に彩られていまして、同時に神道への親近性が徐々にわかってきてしまったんですね。

日蓮の思想には儒教の『貞観政要』の影響が色濃く存在し、事実北山本門寺には日蓮自身が書写した『貞観政要』の写本が現存しています。また『忘持経事』等、多くの遺文の内容に『貞観政要』の引用が為されています。

 

 

 

読んでいるうちに「あ、こりゃダメだ」と(笑)、自分で自分の方向の誤りに気づき始めました。

自分の信仰を根底から否定した恥さらしの私が、今さらこだわりを持つこともありません。

そんなダメダメの教えを信じ込んでいた私がそもそもバカだったのですから。

 

 

 

私は学生時代に『御義口伝』をよく読んでいました。『御義口伝』には名文句が多く、簡にして要を得た説明で法華経の言々句々を大胆に解釈するものです。この『御義口伝』から日蓮思想の再解釈を夢見ていた、そんなおめでたい(笑)時期が私にはありました。

しかしながらそんな淡い希望も打ち砕かれるに至ります。そもそも『御義口伝』最古の写本は天文8年(日蓮滅後257年)の八品派日経のものでしかなく、大石寺写本はさらに後世のものです。しかも挙句の果ては弘安元年述作とされる講義の中に日蓮滅後13年後の『科註妙法蓮華経』の引用がされており、もはや日蓮の純粋な述作とは言い難いものでしかありません。

 

 

 

大石寺写本『御義口伝』の改竄」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/10/08/000000

 

 

 

私が『御義口伝』を読んで学んだことは、空仮中の三諦の理論です。これは後に気づくことになるのですが、単なる天台の教学に過ぎず、このルーツはいったいどこにあるのか、私は様々な仏典を彷徨することになります。

そして私は北伝仏教の開祖とも言うべき龍樹(ナーガルジュナ)の著作に行き着きます。

 

 

 

私は当初龍樹の『中論』の意味がわかりませんでした。あらゆるものを否定するニヒリズムのように感じられて、その意図を理解するまで少々時間がかかりました。『中論』の訳についても複数を読み比べ、少しずつ丹念に読んでいきました。今は削除されていますが、『中論』の読解もこのブログでは記事としてあげたことがあります。

 

 

 

読み進めるにつれて、龍樹自身が『中論』とは別に『十住毘婆沙論』という念仏の著作を書いていることを知り、大きな衝撃を受けます。もちろん現代において『十住毘婆沙論』が龍樹の真作であるかどうかには議論が多く、両述作を安易に結びつける議論には慎重を要するのですが、研究をされている方の論文、また源信道綽法然親鸞などの著作を読むにつけ、念仏思想における龍樹のこの作品の位置の大きさを知るに至りました。

 

 

 

私は当初、念仏思想に誤った先入観を持っていました。極楽浄土が西方の彼岸にあるのだという誤解です。そして穢土を離れた浄土で涅槃(ニルヴァーナ)を果たすのが浄土思想だと思っていました。

しかしながらそれはどれも間違いであり、そもそもニルヴァーナの境地を得たいと思って憧れること自体が迷いなのであり、龍樹の意図はそのような常住の法や憧れとしての境地を根底から否定したことにあったということです。

 

 

 

「涅槃と浄土」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2020/12/13/231020

 

 

 

私はこのブログ執筆を通してさまざまな方と知り合いました。その方たちと出会えたことには感謝しています。

しかしながら、創価学会日蓮正宗顕正会等の大石寺系教団を批判することでしか、自分たちのアイデンティティを語れないとするなら、私には意味がないと感じるに至りました。

批判は批判でも構いません。ではその後に自分は何をしたいのかということです。

挙句の果ては自分自身を権威づけて、他者を貶めるだけの人の多さに気づきました。それなら他者を全否定する大石寺系の思考回路と何ら変わるところがないと私には思えました。

 

 

 

私は青年部時代、創価学会の地域組織の再興を夢見て活動していました。今考えてみれば単なる妄想の狂信者といったところです。そのような勘違いの使命感を帯びて活動に明け暮れていました。題目も狂ったように唱えていました。1日3時間の唱題を決意し、青年部の幹部時代は寝る間も歩く暇も惜しんで題目をあげていました。あまりにずっとあげているもので、近所の幹部さんが心配になって家のドアを叩いて尋ねてきたことがあるほどです。

やるなら徹底してやりたいといつも考えていました。

そしてそんな妄想の熱が醒めた頃、自分のやってきたことは何だったのかと考えるようになりました。気が付けば私は母も父も失くし、天涯孤独の身になっていました。母の親族も宗教絡みの拗れから疎遠になり、亡くなったり一家離散になったりしていました。

 

 

 

バリバリの活動家だった私は母とともに活動から遠ざかり、一気に非活になりました。

母と地域家族の縁から当初は退会にまで踏み出すことができませんでした。

私は創価学会が地域に強いネットワークを張り巡らせており、その相互扶助の組織からおいそれと抜け出すことがいかに地域によって難しいかをよく知っているつもりです。ですから母の地域からの目もあり、当初はゆるやかに非活の道を選ぶことしかできませんでした。

と同時に、今の私は創価学会を退会していますが、一定数の会員が直ちに創価学会の組織から離れることがそれなりに難しいということも熟知しているつもりです。

 

 

 

だからこそ苦渋の選択ながら非活の道を選んでいる方も私には大切な人です。まして私の母や父がそうでした。

そのような方を侮蔑して憚らない、選民思想の裏返しのような考え方を持つ人に私は全く共感できませんでした。

結局、創価学会大石寺を批判する人たちの多くが、同じ元の穴のムジナで、同じような選民思想に囚われてしまうのでしょう。自身のパラダイムの限界も理解し得ないのなら、釈迦の十八界を学ぶことも現実として彼らは無意味だということです。

 

 

 

自身の思想的陥穽に気づき、自身の依拠する思想がそもそも根底から根拠がないこと、一切は十八界の束に過ぎないこと、それへの執着から離れることこそが私の考え方です。

と同時に、私は仏教に無量の門があるとする龍樹の考えに深く共感するものです。

 

 

 

 

『龍樹菩薩伝』によれば、若き日のナーガルジュナは仙術を会得し、王宮に勝手に入って女性たちを誑かしました。その結果、龍樹の仲間たちは切り殺され、一人龍樹のみが生き残ることになります。彼は心に「欲は苦しみの根である」と自らを恥じ、仏門に入るに至ります。ここで描かれるナーガルジュナは決して他人から褒められたような人間ではありません。単なる欲の塊が自身の若き日の半生を悔い、生き直すという起点から龍樹の信仰が始まっていると考えられます。

 

 

 

私はかつて創価学会員として、また日蓮正宗の信徒として、多くの人を傷つけ、その人生を狂わせてきました。

広宣部として対論や諜報活動に取り組み、恥の多い生涯を送ってきました。

私は他者に褒められる人間ではありません。何かを語れるような人間でもない。

しかしそんな罪深い人間もまた、念仏の思想によって救われることを龍樹や親鸞の著作は教えてくれています。

私はどんな寺の信徒にも檀徒にもなりません。

大石寺系の日寛教学から離れることのできない、御義口伝かじりの池田大作戸田城聖の思想には辟易しました。

どんな信仰も自由です。しかしどんな教団も個人の信仰を侵害する権利は持ち得ません。