すでに犀角独歩氏の研究でよく知られていますが、コンピュータ・マッチングという手法による解析で、弘安2年10月12日戒壇本尊は弘安3年5月9日の日禅授与本尊より主題の七字を模写したパッチワーク模造であることが明らかになっています。
氏の発言に私が信頼を置くのはなぜかと言えば、犀角氏自身はもともと創価学会員であり、その後、日蓮正宗にいた方です。そのため当初は「河邉メモ」(昭和53年、大石寺教師であった河邉慈篤氏によって残された阿部日顕氏の発言とされるメモのこと)の信憑性を否定するために実際に弘安3年日禅授与本尊(注1)と弘安2年戒壇本尊との照合・解析を試みたことです。彼自身は日禅授与本尊と戒壇本尊との相貌は一致しないと想定していました。
ところが豈図らんや、中央主題の七字が見事に一致してしまい、自身の思想的前提が崩れてしまったことを上記のウェブで正直に告白しています(画像1枚目参照)。
煩悶の末に、彼は信仰者として真実を認め、検証の結果を受け入れることを選んだわけです。その態度は思想上の相違点を越えて共感できる真摯さであると思います。
彼はかつて戒壇本尊を絶対と考えていた自身の思想的前提をきちんと告白し、総括しています。それは「過去の一切の自分を否定する」ことであったそうです。少なくとも氏がそのような決意に立たれたことには率直な敬意を覚えます。氏は少なくとも創価学会や日蓮正宗ができていない過去への総括に誠実に向き合うことができたのでしょう。
大石寺に伝わるところによれば、戒壇本尊板曼荼羅を彫刻したのは日法だそうですが、これを裏付ける史料は存在しません。そして日蓮自身が允可を与えたとする史料もなく、身延山でこの戒壇本尊が作られたという証拠もありません。
「河邉メモ」全文を引用してみましょう。
「S53・2・7 A面談 帝国H
一、戒旦の御本尊の件
戒旦のは偽物である。
種々の方法の筆跡鑑定の結果解った(字画判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊のお題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」
「河邉メモ」の阿部氏自身によるものとされるこの昭和53年2月7日の発言が真実であるとするなら、当時の阿部信雄氏はよく諸本尊を比較検討し、相応の結論に達しているということになります。ただ大石寺の元管長としてその発言は公式に認められるはずもなく、後に自身が「模写の形跡などは存在しない」と否定しています(『大白法』1999年10月1日)。
犀角独歩氏の見解によれば、主題の七字と四大天王は北山蔵日禅授与本尊の模写(注2)、不動愛染の梵字は全くの他筆、脇書は後世の加筆であるとしています。
過去の総括とはこういうことなのではないでしょうか。
自身の思想的前提が崩壊してしまうという恐れを抱きながらも、では開祖の真意とは何なのか、それを見えなくさせているものは何なのか、卒直に認めて、それを告白する誠実さこそが真に必要なものなのだと私は考えます。
弘安2年戒壇本尊については、あらゆる上古の史料が存在しません。
石山4世日道の『三師御伝土代』の日蓮御伝の年表中には弘安2年の記述は一切残されていません。
日興の『三時弘経次第』にも弘安2年戒壇本尊への言及はありません。
日興、日目の遺文中に戒壇本尊への言及は一切存在しません。
『日興跡条条事』は文書の公開を大石寺が拒否しており、文書には文字を意図的に削除した形跡が残されています。
『御本尊七箇相承』の記述は戒壇本尊の相貌と異なります。
『御本尊七箇相承』では「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」の文を「書く可し」としていますが、戒壇本尊には存在しません。
そして北山蔵弘安3年日禅授与本尊と弘安2年戒壇本尊との主題の七字は画像解析の結果、見事な相似を成しています。
もはやこの事実は否定し難いものです。
それを受け入れる誠実さがあるのかないのかというだけの問題です。
「永遠の法」「絶対の法則」「常住の教え」などというものが存在しないということを説いたのが釈迦の本来の教えでした。
それを常住と偽り権威にすがって生きるのか、それとも他を灯明とせず、自らを灯明として生きるのか、どちらを選ぶのかということです。
(注1)
弘安3年5月9日の日禅授与本尊は、同日同授与者宛の本尊が2幅現存します(北山本門寺と富士大石寺)。日蓮本人が同日に日禅に対して同じ本尊を二つ授与したとは考えられません。したがって考えられるのはどちらかが模写であるか、あるいは表層を剥離して曼荼羅を二つに分けたか、あるいは完全に別物かという可能性があります。ここで犀角独歩氏が比較検討の対象としているのは北山本門寺蔵のものになります。
(注2)
四大天王の比較について、中央主題と置かれる間隔に日禅授与曼荼羅とで若干のズレが存在します(このことは犀角独歩氏自身が認めています)が、各文字の位置や線の太さに相似が確認されています。
紙幅をもとに彫刻をする際に当時は籠抜という手法を用いていました。透けるほどの薄い紙を曼荼羅に当てて輪郭を写し取るものだそうですが、ところが戒壇本尊の大きさはかなりのものがあり(尺丈143.92cm、幅65.15cm)、この大きさのものを一度に写し取れるような大きな紙を当時用意できたとは考えにくいでしょう。ここから氏はパッチワーク説を主張していますが、相応の説得性を有していると私は考えています。
追記:
なお御本尊の画像写真を公開することはタブーのように日蓮正宗信徒および創価学会員の多くは考えていますが、実は熊田葦城『日蓮上人』(報知社)によって公開された写真は明治44年に大石寺によって許可されて撮影されたものです。つまり大石寺が御本尊写真撮影を信徒に当初から禁止していたわけではありません。事実『大白蓮華』81号において戸田会長の画像の背景に水谷日昇氏書写本尊(学会常住本尊、画像2枚目を参照)が写っていますが、これに関して宗門が批判した事実は存在しません。宗門が問題視したのは紙幅の曼荼羅を後に板に模刻したこと、そして池田会長が自身で開眼供養を行ったことです。
まあこれは邪推になるかもしれませんが、宗門が本尊の写真撮影を後年になって禁じるようになったのは、信徒にあまり相貌についていろいろ知られてもまずいと判断したゆえなのかもしれませんね。何しろ『御本尊七箇相承』と戒壇本尊とを比較しても相違点が山ほどあるわけですし。
(参考文献)
◯犀角独歩『大石寺漫荼羅本尊の真偽について』宗教と社会を考える会、2016年。
◯柳澤宏道『石山本尊の研究』(増補版)はちす文庫、2013年(初版1997年)。