気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

宗祖妙判の読誦。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて私は念仏を唱える際、浄土真宗でとりわけ重要視されている「正信偈」も音読することを心がけています。
これは親鸞の『教行信証』行巻末尾の偈で、これを唱えることで阿弥陀仏への感謝を捧げることになります。


経文ではなく宗祖の言葉、妙判を唱えるということは、開宗の原点を忘れないという意味で重要なことのように思います。



ところで、私は元創価学会の活動家、また大石寺法華講元信徒でしたから、詳しくは知らないのですが、身延山日蓮宗では朝晩の勤行に法華経方便品、如来寿量品、如来神力品の三品に加えて日蓮の妙判を音読することが知られています。
「宗祖日蓮聖人の御妙判に宣わく」と述べた後に、『立正安国論』や『観心本尊抄』等、日蓮遺文の一部を読誦するのです。



ところで最近、正信偈を読誦していて、ある日ふと思ったのですが、なぜ創価学会日蓮正宗のような大石寺系教団は日蓮の遺文を勤行で読誦しないのでしょう?
考えれば考えるほど不思議です。



なぜなら日蓮正宗等の大石寺系教団は、末法における本仏を釈迦ではなく、日蓮としているではありませんか?
釈迦が迹仏であり、末法の本仏を日蓮とするのであれば、なぜ文上の釈迦の法華経ばかりを音読して、日蓮の言葉を読まないのでしょう?



浄土真宗ではきちんと親鸞正信偈を読誦します。
身延山日蓮宗でもきちんと日蓮の遺文を読誦します。
しかしなぜ、日蓮末法の本仏とする教団が日蓮の遺文を読誦しないのでしょう?



考えてみれば不思議なことですが、意外とこういうところに大石寺系教団の教義のいい加減さが現れているのかもしれませんね。