いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は方便品と寿量品とを読むことについてです。
これらに関しては以前にも書いたところですが、もう少し詳しく見てみましょう。
「なぜ方便品と寿量品を読むのか」
まず勤行として法華経方便品と寿量品とを
読む理由は、大石寺26世堅樹院日寛の『当流行事抄』冒頭に次のようにあるところかと思います。
「修行に二有り所謂正行及び助行なり、宗々殊なりと雖も同じく正助を立て行体各異なり、流々の正助は今論ぜざる所なり、当門所修の二行の中に初めに助行とは方便寿量の両品を読誦し正行甚深の功徳を助顕す、譬えば灰汁の清水を助け塩酢の米麺の味を助くるが如し、故に助行と言うなり」
と、ここで書いているように大石寺の教義としては方便品と寿量品とを助行として読誦することを確かに日寛が説いています。正行としての題目を唱える時、それを米や麺に例えて、味付けの塩や酢の役割として方便品や寿量品とを読むということになります。
一部経とは法華経一部八巻全てを読誦する修行のことですが、ここで日蓮はきちんと一部を読むとしています。なお『転重軽受法門』は日蓮真蹟が中山法華経寺に現存しており、加えて文永8年10月5日の日付があるので、竜ノ口以降も日蓮は法華経一部読誦を行なっていたことがわかります。
「一向に法華経の内・自我偈読誦し候又同くば一部を読み奉らむとはげみ候これ又偏に現当の御祈禱の為なり」
(日蓮『下山御消息』同343ページ)
十大部の一つとされる『下山御消息』は建治3年6月の述作とされますが、ここでも日蓮は自我偈だけでなく「法華経一部」を読むことを強調しています。『下山御消息』の真蹟は随所に断片として散逸していますが、真蹟は現存の遺文として扱われています。
「三十余人をもつて一日経をかきまいらせ・並びに申酉の刻に御供養すこしも事ゆへなし」
(日蓮『地引御書』同1375ページ)
弘安4年11月の『地引御書』では大師講の集まりで「一日経」(法華経一部八巻全てを一日かけて書写する修行法)を行なったことが書かれています。この『地引御書』は身延曽存で明治8年まで身延に真蹟が現存していたことがわかっている御書です。つまり弘安4年という晩年まで日蓮は法華経読誦だけでなく法華経一部書写の修行を大師講参加者に奨励していたことになります。
「されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ」
(日蓮『月水御書』同1201ページ)
実はこの『月水御書』は真蹟不存、時代写本も現存しません。したがいましてこれは偽書説の疑いの強い遺文です。余談ながら創価学会や大石寺というところはこういう真蹟の存在せず信憑性の低い遺文ばかりをやたら信徒に読ませたがります。
確かにここでは方便品と寿量品とを読むことが強調されているのですが、問題は方便品の「長行」と寿量品の「長行」とを読むことが強調されている点です。
上の画像は現行の創価学会版『妙法蓮華経並開結』(108ページ)ですが、きちんと「如是本末究竟等」の後、「欲重宣此義、而説偈言」として「世雄不可量」以降の偈が続いているのがわかるかと思います。この部分は「世雄偈」と呼ばれます。
事実、大石寺系では正信会系の一部僧侶がこの方便品長行を読誦することが知られています。また最初に引用した日寛の『当流行事抄』では確かに方便品の長行を読むべきであると説かれている部分が存在します。
「問う今当門流・或は但十如を誦し或は広開長行を誦す」
(日寛『当流行事抄』前掲200ページ)
ここで日寛は大石寺門流では方便品の十如是だけではなくきちんと長行を読むことがあることを認めています。そしてこの後、その謂れも日寛が説明しているのです。
すると創価学会や大石寺の信徒は、なぜ方便品の長行をちゃんと読まないのかという問題になります。日寛の教義から方便品と寿量品の読誦を基本とするなら、なぜ方便品長行を読まないのかを説明しなければならないでしょう。
以上、いろいろ書いてきましたが、簡単にまとめてみます。
1、勤行の形式として方便品と寿量品とを読むことの根拠は、大石寺26世堅樹院日寛の『当流行事抄』である。
2、しかしながら日寛は方便品の長行と寿量品の長行とを併せて読む意義も強調している。
3、日蓮自身は、真蹟から判断すれば、方便品・寿量品だけでなく法華経一部八巻全てを読誦する「一部経」も認めている。また法華経一部を一日で書写する「一日経」等の修行も認めており、弘安4年の大師講の集まりでも法華経一部の書写供養を弟子たちにさせている。
ということになろうかと思います。