朝晩の勤行で、方便品と寿量品を読誦するのはどーしてですかって聞くと「所破・借文」と「所破・所用」のためなんですって。
誰が決めたんですか?
そーです。
大石寺26世堅樹日寛が『当流行事抄』の中で決めたことです。
その教義って今の創価学会に必要なのでしょうか。
検証もなく、考えることもせず、ダラダラと唱えているだけなんじゃないのでしょうか。
そんなことを日蓮はどこかで述べているんですかね。
それをちゃんと検証したんですかね。
ただ日寛を鵜呑みにしているだけなんじゃありません?
それが正しいんですか。
正しいのなら、それが正しいのだと検証したんですか。
方便品で世雄偈は読まなくていいんですか。
要するに十如是を三転読誦して、一念三千の義を顕すってことでしょうけど、それって一念三千なんですか。
鳩摩羅什が意訳して拡大解釈したわけですよね。
じゃあ、どうして十如是に拘るんですか。
それは一念三千の義になるんですか。
ではそもそも一念三千って何なのですか。
寿量品で長行は読まなくていいんですか。
なんで読まなくていいんですか。
父が薬を置いて去っていくシーンってとても素晴らしい部分だと思うんですけど、比喩としてもそこは読まなくていいんですか。
そもそも題目の意義を考えるなら、陀羅尼品とか化城喩品などはぜひ読まれるべきでしょう。従地涌出品だってダイナミックですよね。他にも読みたい品は私などはたくさんあります。
日寛にみんな丸投げですか?
何も考えずに「日蓮正宗は正しくないけど、日寛は正しい」って詮索することなく盲信するわけですかね。
そもそも日寛の『当流行事抄』を創価学会の方はちゃんと読んだのでしょうか。
まさか読みもしないで、日寛が正しいなんて言ってるんじゃないでしょうね(笑)。
誰かが考えてくれれば、それで別にいいのでしょうか。
教学部とか上の方、学会本部が考えてくれるから、一人一人の会員は別にそんなの知らなくても考えなくてもいいのでしょうか。
それって日蓮の教えなのでしょうか。
偉い人が考えてくれるから、信徒は考えなくても良いなんて、そんなの日蓮正宗となんら変わりないではありませんか。
相変わらず『御本尊七箇相承』と戒壇本尊との相貌の矛盾点一つさえ何も誰も答えられませんからね(笑)。
創価学会は勤行についてもそうですが、基本的な事柄から教学の再構築をしなければいけないはずです。
無反省に日寛教学をやるだけだと、結局「じゃあ日蓮正宗に戻った方がいいんじゃない?」って話になってきますよ(笑)。
まあ戻りたいならそれでもいいんですけど。
私には関係ない教えですね。