気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

本尊書写とは受持の因分における化他行である。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて現在の日蓮正宗では「本尊書写」に対して、随分と神秘的な説明を行なっています。
例えば日蓮正宗の説明では「御本尊の御書写とは、本門戒壇の大御本尊の御内証を、時の御法主上人が唯授一人血脈相伝をもって、お写しあそばされることであり、大御本尊にそなわる御本仏の「たましい」と、一切衆生を利益される御本仏の功徳を、そのままお写し申し上げること」(『大白法』908号、平成27年5月1日)とされています。また実際、多くの法華講信者や日蓮正宗僧俗に聞いても同様の答えを返すでしょう。
 
 
ところが、大石寺26世堅樹院日寛の文段によるなら、少し事情が違ってきます。日寛はここで本尊書写について全然違う説明をしているのです。日寛の『観心本尊抄文段』を見てみましょう(阿部日顕監修、創価学会教学部編『日寛上人文段集』より486ページ、聖教新聞社、昭和55年)。

 
ここで日寛は大石寺門流における「受持」が五種の妙行(受持、読、誦、解説、書写)を「総する」としています。そしてここの解説の終わりで日寛は本尊書写について言及し、「本尊書写豈化他に非ずや」(同486ページ)と述べています。すなわち日寛における「本尊書写」とは法華経法師品の五種の妙行を総する「受持」の因分の位における「化他行」であると捉えられているのです。
 
つまり日寛の時代にあっては本尊書写とは受持の位における「化他行」の一環だったのであり、本尊書写を「御内証の書写」や「御本仏の功徳の魂を書写」する等の教義は、後世に作られた後付けの教義ということになるでしょう。事実、現在の日蓮正宗の僧俗で法主の本尊書写を「受持の位における化他行」と説明している人を私は見たことがありません。皆、日寛に背いているとしか思えません。