気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

話がわかりづらい人たち。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、私は教義的に小難しいこともこのブログで書きますが、その場合は「明確に」「わかりやすく」「文献的な根拠をあげて」「なるべく簡潔に」書くように心がけています。



確かに創価学会信濃町本部職員からの伝聞情報みたいなこと等、記事で書くこともあるのですが、その場合は必ず「伝聞でしかない」ことをきちんと述べ、聞いた情報から推察したことを素直に書くようにしています。



しかし教学に関しては、きちんと根拠もあげ、議論に客観性を持たせるようにしています。
というのも、創価学会とか日蓮正宗法華講の信徒さんの多くが教義を述べる際、「わかりづらいことをさらにわかりづらく述べる」傾向があるからです。



特に大石寺の一部の教条主義的な法華講さん、妙観講さんの話は本当にわかりづらくて、わざとわかりにくく話して人を煙に巻いているのではないかと思えるほどです。
で、文献的な根拠を挙げて質問しようものなら、「秘すべし秘すべし」とか「私は御法主上人猊下に信伏随従します」とか「貴方は誰の教えを受けて法華経を学ぶのか」等、なぜか大抵は上から目線で論点を逸らすばかりしかできなくなるんですね。



私が信用する友人たちは、皆、教学に深い造詣を持っています。だいたい私の父がそうでした。そして彼らの話はどこをとっても「わかりやすい」のです。
ですから「話がわかりにくい」「神秘主義的な話で人を煙に巻くだけ」「教義的な根拠を示さない」「何を言っているのかわからない」人を私は基本信用しません。



教学的に深い学びをされている方ほど、話は明確でわかりやすいものです。
それがなく、論拠も示すことができず、教条主義的な解釈で、自身の妄信を他者に強要することしかできないような信徒は、返って自分たちの話が教学的な論拠に乏しく、教義的な研鑽が浅はかであることを暴露しているに等しいのだと思っています。そしてそういう人たちほど、自分たちの教義の浅薄さに無自覚であったりします。