いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私は小難しい教学に関する記事をブログ中で取り上げることが多いのですが、その背景にあるのは自身が広宣部あがりの元創価の活動家だったという点が大きいのです。
私が活動家時代になぜそんなに無心に教学の研鑽をしてしまったのか、それは創価学会教団において、新しい教学の運動が起こると当時愚かにも私は信じ込んでいたのです。
「そこで、これは提案になりますが、来年には「仏教大学講座」を創設したいのであります。その意図は、教学を学問的に勉強すること、および、そこで語学くらいは学んで、世界に雄飛する人材をつくるということであります。当初は全国に公募して五十人くらいに人数をしぼって発足させたい。具体的な方法等については、教学部の中に委員会をつくりまして、そこに一切を依頼いたします。
教学は、根本的には信・行のバックボーンであり、また、学会教学の従来の伝統はそこにあったし、今後も少しも変わりありません。同時に、その母体のうえに、そろそろ教学を学問として大成させる時期にもきているように私は思う。信・行のバックボーンとしての教学、そして教学の学問化、この二つを並行させながら冥合させていくことが、創価教学の今後の方針と考えたい。


創価学会の昭和48年の活動テーマは「教学の年」でした。同講演中で池田大作氏は「昭和48年が教学の年でありますが、これは明年一年で終わるものではなく、1979年までの七年間は、その全体が「教学の年」であるという決意で臨んでまいりたい」(同63ページ)とさえ発言しています。
では池田大作氏の言うように1973年〜1979年(昭和48年〜54年)の間に「教学を学問的に勉強する」信徒の教化育成は進んだのでしょうか。
結果的に進んだことは、昭和52年路線の到来、虚偽で固めた大石寺教学の在家主義的な拡大解釈、創価学会の会館を寺院としてみなす態度、在家主義的な血脈観、三代会長の神格化等、単に日寛教学を拡大解釈して現代的に敷衍して換言するだけの教学観でしかありませんでした。何ら学問的な教学の研究態度など信徒の中には醸成されなかったのです。
「昭和52年路線の転轍」
「昭和52年路線の背景を考える」
「昭和51年当時の原田稔氏の師弟観」
「昭和54年の会長辞任の責任」
この在家主義的な教学解釈の態度(いわゆる52年路線)は、池田大作氏がその責任を認めて公式に謝罪し、会長を辞任したことで終了しました。
私は活動家時代、広宣部として活動する中、「創価ルネサンス」と言うべき教学運動が新しく起こると当時愚かにも考えていました。結局それらは当時の私の浅はかな幻想に過ぎなかったのですが、活動家として「ルネサンス=文芸復興」とも言うべき教学の新しい潮流が起こると私は本気で考えていたのです。
ところが、この頃から教学を語れなくなる創価学会信徒が増えました。御書もろくに読まず、教学試験の内容も減り、マークシート方式になりました。青年教学1級試験にあった2次面接もなくなり、御書どころか日寛の六巻抄や堀日亨の富士宗学要集も絶版となって全く読まれなくなりました。
結局、1973年から言ってきた池田大作氏の「教学の学問的研究」や「教学を学問的に大成させる」「大教学運動」と言ったものは、単なる偽善でしかなかったと私は思います。今の創価学会信徒さんの多くは日蓮遺文の真蹟の問題さえ知らず、真蹟不存の偽書ばかりを読んでは、仏教でも何でもないウパニシャッド思想的「生命論」ばかりを述べることしかできなくなってしまったのです。