いつもみなさん、ありがとうございます。
内実は大石寺宗門から離れて、創価独自の教義を主張するもので、昭和52年路線の焼き直しに過ぎません。まあ、池田大作氏も54年会長辞任の頃、宗門に苦杯を飲ませられましたから、逆に第2次宗創紛争ではやりたいようにやったのかもしれませんね。
結果、何がどうなったか。
創価学会員は多く、教学的な話がわからなくなりました。
大白蓮華等の機関誌での御書の研鑽もレベルがどんどん低下しました。毎月の座談会では大きな文字でデカデカとページに書かれた、わずか数行の文章を皆で音読し、終わりです。
加えて、創価学会の中に独自教義を勝手に主張するような傾向が増えました。
そんなわけのわからない教学など、日蓮門流や仏教関係者から見向きもされないで終わるだけですが、彼らは自分たちが何をやっているのかさえわからなくなってしまっています。
そんなものは仏教であるはずもないのに、彼らはそんな基本的な批判すら受容できずに、内側の殻に閉じこもることしかできなくなっているのです。
彼らは日蓮門流を名乗りながら、五重の相対で内外相対の「外道」に戻るのが仏教の本流だと考えているのでしょうか。
私は宇宙とか生命とか常住の法とか、そんなことを主張する人たちを全く信用していません。そんなことを主張する人たちは、真摯に仏典を読んでいないことを暴露しているに等しいのです。
永遠の法や常住の仏、また涅槃に憧れるのが人間の常ですが、そもそもそこへの執着を捨てることを教えたのが仏教であったはずです。
「御義口伝には真理がある」とか「池田先生は間違っていない」とか「御本尊に確信がある」とか、そういうわけのわからない思い込みを全て捨てることなのです。
仏教の教えは、そのような常住の教えを否定することにあります。
釈迦は「大パーリニッバーナ経」で、釈迦から離れて自身を島にすることを伝えています。