いつもみなさん、ありがとうございます。
さて、私はこのブログを書くにあたり、あらゆるものを検証の対象としています。
私がブログ執筆の基本にしていることは「動かせない史料や事実から結論を導き出す」という姿勢です。
ところが、当時の文献から見ると、同年8月14日にも24日にも池田大作氏が戸田城聖氏と会った事実は立証できないのです。池田大作氏は昭和31年(1956年)のインタビューで入信経緯を述べていますが、ここで戸田城聖のことも即興詩の逸話も述べられていないのは全く不自然です。また昭和32年(1957年)10月18日付の聖教新聞・関東版6面に掲載された池田大作参謀室長(当時)の入信経緯にも「教学部長(小平芳平)に折伏された」ことが述べられており、入信当時に戸田城聖氏との出会いは全く語られていません。とすれば、これらの史料から池田大作氏は当時戸田城聖氏に会っていなかったことがわかります。つまり池田大作氏は入信経緯を会長就任以降に「偽装」したことになります。
「池田大作の入信経緯の偽装」
パナマのノリエガ氏と会見したことも同様で、ノリエガ氏が麻薬密売で逮捕、失脚してからは富士宮市に建てた「ノリエガ庭園」も取り壊し、会見自体がタブー視されるようになります。池田大作氏は昭和62年2月にはノリエガ将軍のパナマ政府から贈られた同国最高位の「バスコ・ヌニエス・デ・バルボア勲章」を返上もしていません。またノリエガ氏に池田氏が「貴国は国は小さいかも知れないが、指導者はあまりにも偉大であり、大きい」と語ったことは何だったのでしょうか。
「池田氏とノリエガ氏との交友」
また池田大作氏が原田稔会長ら執行部から無視されているような曲解をされ、無理矢理に「池田大作が正しい。原田稔が間違い」と現在の創価学会の誤りを原田稔ら執行部になすりつけ、池田大作を絶対視する人たちが一部の批判者に散見されますが、そもそも2013年11月6日付の聖教新聞には池田大作氏は原田稔会長や長谷川重夫理事長ら執行部とともに、信濃町の大誓堂の入仏式を行なっています。もしも2013年11月の時点で、池田氏と原田氏ら執行部になんらかの意見の相違があるのであれば、氏がここで原田会長らとともに信濃町総本部の御本尊に読経唱題するという事態が不自然です。
またジャーナリストの高橋篤史氏が指摘したところですが、信濃町が外資系コンサルティング会社の「アクセンチュア」と契約をし、法人改革を進めたのは2000年代半ばと言われています。池田大作氏が本部幹部会から姿を消すのが2010年のことですから、アクセンチュアとの契約は池田大作氏も認識していた事実であったということになるはずです。
「経営コンサルティング会社との契約」
「それは違う」と言い張る方がいるなら、そもそも高橋篤史氏が提示した資料は、アクセンチュア側が信濃町の本部に提示したのが「2008年6月」とされています。2008年は池田大作氏がまだ普通に元気に本部幹部会に参加していた時期にあたります。それを否定されるなら、高橋篤史氏の示した日付を否定する何らかの根拠が必要になるでしょう。
上記のようなことから、私は池田大作氏も批判されるべきであると考えています。
私はこのブログのプロフィールで、創価大学文学部出身であることを明らかにしています。個人情報をブログで全て示すことは憚られますが、可能な限り事実は事実として示したいと考えています。創価学会の批判者として「創価大学出身ということを出すのは如何なものか」という意見も頂きましたが、事実は事実なので仕方がないと考えています。ブログに何らかの至らない点があるのなら、それは執筆者の自分が批判されるだけのことです。
何かを絶対視して、自分たちのアイデンティティを守りたいということは理解できますが、私はそれらの姿勢を支持することができません。
矛盾があるなら矛盾を認め、それらは批判・検証されるべきだと思います。批判と検証に耐え得ないものはやはり信用性に欠落すると思います。
「反証可能性について」
大切なことは事実を明らかにすることであり、私がそのために採っている姿勢こそ「動かせない史料や事実から結論を導き出す」ということです。
創作された小説や神話、偽書でしかない文書、宗教上のドグマを「ただ信じる」だけでは、それは単なるドグマの再生産にしかならないのです。