気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

池田大作氏の入信経緯の偽装。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今回は、池田大作氏の入信について改めて書いてみます。
池田大作氏が入信したのは、昭和22年(1947年)8月24日のことです。
この辺の事情については、以前に既にブログ記事にしているのですが、今回は資料や文献の画像も少し載せて、明確にしておきたいと思います。以前の記事はこちらです。


「池田青年の入信の事実」


さて、文献から確認できるのは、池田大作氏が最後まで入信を拒んで、御本尊を受けようとしなかった姿勢です。
創価学会の公式見解では昭和22年8月14日に戸田城聖氏に池田氏は会ったことになっていますが、その10日後の入信(御授戒)の日には、最後まで本尊を貰うことを拒んでいるのです。


以下の画像は、溝口敦『池田大作「権力者」の構造』(講談社+α文庫、2005年)60ページの部分で、ここでは当時の我孫子支部の参与であった瀬尾正吉氏が、中野の歓喜寮での池田大作の御授戒について、後の大石寺65世堀米日淳氏の発言をきちんと証言しています。

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堀米日淳師からよく聞かされたものだが、池田の御授戒は日淳師が住職をしていた中野の歓喜寮でだったんですね。池田は小平(注:小平芳平氏)に連れられて来たが、御授戒だけは受けたものの御本尊を受けるのはどうしても嫌だという。日淳師は仕方なく小平に持たせ、そのうち池田の気が変わるだろうからといったそうです。」
(溝口敦『池田大作「権力者」の構造』60ページ、講談社+α文庫、2005年)



なお創価学会側が公式に溝口敦氏の同著作に対して異議を申し立てたり、裁判を起こした事実は存在しません。つまり創価学会は上記記述を事実上"黙認"していることになります。


さて次は小口偉一編『新心理学講座4  宗教と信仰の心理学』(河出書房、1956年)から、池田大作氏のインタビュー記事を載せたいと思います(同57〜59ページ)。ここには「創価学会 E(男)」と書かれているのみですが、記述中に「生まれは大森のノリ屋」「三歳くらいの時に蒲田に移り」「青年部の部長をしている」「大倉商事【大蔵商事】(金融会社)に勤務中」「教団内にも著名な人」「青年期まで病気ばかりしていた人」「戸田さんの出版に小僧から入った」こと等が書かれていますので、池田大作氏本人へのインタビューであることは疑い得ないと思います。

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「話しぶりも、人柄から受ける感じも強い信念にもえているような感じがみられる。青年期まで病気ばかりしていた人とはとうてい思えない。折伏のときには強い戦士として教団内にも著名な人であり、青年部の部長をしている。現在大倉商事(金融会社)に勤務中。
「生まれは大森のノリ屋です。三歳くらいの時蒲田に移り、それ以後東京に住んでいるわけです。小学校では栄養不良で三・四回も死にそこない、がんらい身体が非常に弱かったんです。終戦の年には六回目の肋膜をしていましたし、肛門性(コウモンネンパクビラン)のもので、耳や鼻などみんな悪く、血痰が出てたんです。終戦の反動でなにかやりたいという気持があって、学校時代の友人に誘われて創価学会の本部へいきました。その友だちは哲学のいい話があるがこないか、とさそったのです。私は友人と二人で行ったのですが、三、四〇人もいたでしょうか。五時間くらいもそこで締めあげられたのです。南無妙法蓮華経は嫌いだったので、ずいぶん反対したのですが、理論で破れて信仰しなければいけないということになってしまったのです。負けたのでシャクにさわってしかたがない。その時の感じをいえば、理論をうけとめる素地がないからわからない。それだのに相手は確信をもって話している。こちらは観念的で浮いているような感じがしたんです。そのときの話しというのはこうなんです。『これから先のこと、二十年先のことがわかるか。これから年とって、その先なんのため生きたかを考えることになるが、それならば今のうちに考えたらいいではないか。自分の宿命は自分でも知らないではないか。誰が援助しても、社会的に偉くなっても宿命だけはわからない。宿命は解決できるか、人生ひとたび死ぬではないか。苦しんで死ぬのではしかたない。この四つの全部がわかっていれば信仰の必要はない。わからなければ真面目に考えろ。信仰をしろ』というのです。
私はこれに答えられず、信仰すると答えたのです。それでお題目を唱えろということでしたが、はずかしくてしかたがなかったのです。友人は入信しないで黙っていました。それから御本尊をお下げするという話で、私は三十分ほどいりませんとがんばったんです。すると幹部がなだめて、むりやり私に押しつけました。
家に帰っても三日間おがまずにほっておきました。三日目にすごい雷が鳴って、私の上ばかりでゴロゴロ鳴って、私ばかりを狙っているように思ったので、そのとき思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました。それは高校を出て蒲田に勤めて出張していたときのことです。それからは、おがみはじめるとなんとなく一日安心感があって、おがまない日は仕事もなにも落着かない。それでおがむとこうなんだから信仰は大事だなあと思ったのです。それから一年は普通にやっていました。そのころはバチがこわかったのです。前の信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される。その時はどうしようか、寝ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました。二年目に「立正安国論」の講義を聞いてから、よし、よい勉強しようと考えるようになりました。三年目の八月に戸田さんの出版に小僧から入りました。信用組合にも入っていたんですが、アパートに住んで、給与もなく乞食同然で苦しくて仕方がなかったんです。戸田のところへいったからというので、家からは勘当同然でした。一四、五人の研究会の仲間からもやられました。そこで御本尊さまにこの苦しみだけ逃れさして下さい、という願いをして御題目を六〇万遍唱えることにしました。逃れなければやめようと思っていたのです。それが不思議にも百日過ぎて急によくなってきたのです。その時先生は事業を譲っていましたが、それをこしてから完全になにからなにまでよくなって、身体も、生活も、物質的にも、社会的地位も過分なまでによくなったんです。私の体験は三年だけです。信仰しなかったならば二三くらいで死んだだろうと言われています。信仰していなかったら貧乏で病気で死んでいたでしょう。わたしは今それから六年経っていますがずっと順調で申し分のない幸を得ております。」」
小口偉一編『新心理学講座4  宗教と信仰の心理学』57〜59ページ、河出書房、1956年)




上記記事を読めばわかりますが、入信の際に御本尊を当初は受けるのを池田大作氏が嫌がっていたことがわかります。また上記インタビュー中では、入信の際に戸田城聖の名前が全く出てきません。戸田の名前は入信後「三年目の八月に戸田さんの出版に小僧から入った」で初めて出てきます。ここからもわかるように、8月14日の時点でも24日の時点でも池田大作氏が戸田城聖氏と会っていた事実は立証できないと思います。もしこの前後に池田氏戸田城聖と会っていたのであれば、そのことがこの入信のエピソード中に出てくる筈です。
またこのインタビューは、昭和22年8月24日の時点で、池田大作氏は入信の意図を固めたとは言い難かったこと、前述の瀬尾正吉氏の発言とも矛盾していないこともわかります。


しかし、私は池田大作氏のこの入信の経緯を知っても、さほど不自然なこととは思いません。むしろ池田大作氏も若い頃に悩みながら信仰活動に取り組んだのであり、非常に人間的で素朴な信仰をしていたことがわかって、返って好感が持てます。
私が批判されるべきだと考えるのは、このような素朴な池田氏の信仰観自体ではなく、むしろ戸田城聖氏から禅譲があったかのように入信の経緯を「偽装」し、入信神話を創作したことであり、そのような偽装の入信過程の虚像を頑なに守ろうとする後の池田大作氏や教団、またそれらを頑なに信じ込んで実像を受け入れようとしない、大石寺系教団らしい原理主義的信徒のドグマチックな姿勢の方なのです。