気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日蓮出世の本懐は「南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像」である。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて「出世の本懐」とは、仏がこの世に出現した目的の意味として、語られることが多いのですが、創価学会大石寺は『聖人御難事』の「余は二十七年なり」の一文から、それらが「弘安2年に果たされた」とか「それこそが弘安2年の戒壇本尊だ」と言うアクロバティックな解釈をしてきます。



「『余は二十七年なり』って」



この「二十七年なり」を「今から出世の本懐を遂げるのだ」と読む解釈は、かなり文意からも無理がありまして、不自然な読解であることは上の記事を見ればおわかり頂けると思います。




ところで、この「出世の本懐」が具体的に何なのかは、結局、この『聖人御難事』でも説明されていません。
実は、この「出世の本懐」が何かは、日興の『原殿御返事』に具体的に書かれています。

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「此れのみならず日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へども、未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道殿御微力を以て形の如く造立し奉らんと思召し立ち候を、御用途も候はずに、大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代りに、其れ程の仏を作らせ給へと教訓し進らせ給いて、固く其の旨を御存知候を、日興が申す様は、責めて故聖人安置の仏にて候はばさも候なん。それも其の仏は上行等の脇士も無く、始成の仏にて候いき。其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ。なにのほしさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給へ候べき。御力契い給わずんば、御子孫の御中に作らせ給う仁出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候を御安置候べし。」
編年体日蓮大聖人御書』創価学会版、1732〜1733ページ)



引用の冒頭で、明確に「日蓮聖人御出世の本懐」が「南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像」であることが、明確に書かれています。
もしも大石寺が主張するように、日蓮の「出世の本懐」が「弘安2年戒壇本尊」なのであれば、なぜわざわざ日興本人が「出世の本懐」を「南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像」と書く必要があるのでしょうか? 単に「出世の本懐戒壇本尊」と書けばよいだけです。
また最近の創価学会が主張するように、「出世の本懐」は「熱原の法難を契機として民衆仏法を構築したこと」なのだとするなら、日興がここに書き残した「南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像」が「民衆仏法」の本体だと言うことになるのでしょうか?



日蓮や日興が書いて遺してある文から素直に読み解けば、日蓮や日興の意図が理解できる筈です。それを避け、日蓮や日興の遺文を意図的に歪曲し、すり替え、それでいて自分たちが「日蓮や日興の正統」だと主張するなら、単なる宗祖開祖の利用に過ぎないと私は思います。




「日興は仏像本尊を認めている」