いつもみなさん、ありがとうございます。
「ただし日本国の一さいしゆしやう、ぢごくにおちうずると、しやう人の仰候は、上下万民、しよほつしんのしやかほとけをすてまいらせて、あるいは、あみだほとけ、あるいは大日によらい、あるいはやくしほとけを、しとたのみて、ほんししやかによらいにそむきまいらせ候あひだ、むけんぢごくとは、をうせ候ぞかし。」
ここで日興は「ほんししやかによらい」に背く間、日本国は「むけんぢごく」であると書いています。この日興真蹟は北山本門寺に現存します。
(日興『與波木井実長書』同162ページ)
このように、日興の文献を一つ一つ読んでみると、日興自身の思想に日蓮を本仏とする考え方を全く読み取ることができません。
にも関わらず、日興の書状や遺文の中に日蓮を本仏とする文脈を全く読み取ることができないということは、そもそも日蓮日興の中に日蓮本人を本仏とする発想が存在しなかったということを如実に物語っているかと思います。