いつもみなさん、ありがとうございます。
今回は日興の身延離山に伴う、日興と波木井実長(南部六郎実長)の関係について考えてみたいと思います。
ところで、先日の記事で書いたように、日興の『与波木井実長書』によれば、波木井実長の仏像造立に関して、それが釈迦一仏のみの造立だから批判したのであり、四菩薩を伴う久遠釈迦仏の造立に関して、日興は全く否定していないんですね。その意味で日興は仏像造立を決して否定しているわけではないのです。
「日興における久遠実成釈迦如来」
ところで、両者の関係に関して、日興が身延を離山して以降の文献を読んでいくと、両者の関係が完全に断絶したとはどうも言いにくいことがわかってきます。
例えば日興の永仁6年(1298年)の著作である『弟子分本尊目録』には次のような一文があります。
「一、甲斐国南部六郎入道者日興第一弟子也。仍所申与如件。」
(日興「弟子分本尊目録」『日興上人全集』124ページ、興風談所)
『弟子分本尊目録』が書かれたのは永仁6年(1298年)であり、すでに日興の身延離山の10年以上も後のことです。
身延離山から遥かに後になって、日興は彼の謗法を責めるというより、ここで南部六郎実長を「日興第一の弟子」とまで呼んでいます。
加えてもう一つ日興の書状を紹介したいと思います。富士妙蓮寺に現存する『六郎入道殿御返事』です。
「へいけ(平家)のさんもん(山門)[たい]しうにてきたい(敵対)候て御こしに[や](矢)たち候しかは三ねんのうちに[たい]しやうの入道ほろひ候き。[あ]まりにほくゑ(法華)にあた(怨)をなし候てつゐにかかるせうしひきいたし(引き出し)候ぬ。しやくもんにはこれよりこそしんたいすへく候。これらの事もしやう(聖)人のほくゑ(法華)にあまりあた(怨)をなしていやしみ(賎しみ)候つるかなりつるすゑ(末)にて候也。恐々謹言。
正月十三日
白蓮花押
謹上 六郎入道殿御返事」
(日興「六郎入道殿御返事」同210ページ)
この書状には前紙が欠損しているようです。『日興上人全集』の注記によれば、平清盛が久安3年(1147年)6月15日、山門の祇園社の神輿を矢で射て、その権威を失墜させたという言い伝えがあるようです。その3年後に大将・平清盛が熱病で倒れたことを指した書状と推察されます。
この書状の末尾には「六郎入道殿」と書かれ、これは最初の『弟子分本尊目録』の記述から南部六郎入道、すなわち波木井実長のことと考えられます。興風談所の注記によるなら、この書状は身延離山の後のものと考えられていまして、もしもこの「六郎入道」が波木井実長だとするならば、日興は身延離山後も波木井実長とその一族に対して教導をしていたことが考えられます。つまり両者の関係は決して断絶していたわけではなかったことになります。