気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

下山日布と国柱会。





みなさん、いつもありがとうございます。
さて今回は戦前の大石寺国柱会の関係についてです。



大石寺の機関誌であった『大日蓮昭和10年3月号に「日布上人をしのび奉りて」という文章が掲載されているのですが、実はこの中で大石寺55世下山日布氏が国柱会の幹部と姉崎正治氏に対して戒壇本尊の御開扉をしたという記述を見ることができます。



「ある時姉崎博士それから国柱会山川長瀧等の諸先生が登山されたことがあった。上人の御導師で戒壇の御本尊の御開扉、終りて徐ろに参詣者に向直られたる上人は、『各々ヨウコソの御登山、仏祖三宝も御満悦のことと存ずる。各々が無始以来の罪障消滅現当二世の所願満足と御祈念申上げました。南無妙法蓮華経』と一拶されました。」
(『大日蓮昭和10年3月号より)



この中で姉崎博士とあるのは、宗教学者で『法華経の行者日蓮』の著者である姉崎正治氏のことです。そして国柱会の「山川長瀧等」とあるのは、国柱会幹部で田中智学氏の弟子でもあった山川智応氏と長瀧智大氏の両名であるかと思います。


この御開扉の時期なのですが、立正安国会が「国柱会」に名前を変えたのが大正3年(1914年)で、大石寺55世日布が亡くなるのが大正8年(1919年)のことです。したがってこの5年間のどこかの時期で日布が国柱会幹部らを「ヨウコソ」と迎え、御開扉までして遇していたということになります。


大正3年大正8年といえば、ちょうど牧口常三郎氏が国柱会の会合に参加していた時期と重なります。
つまりこの時期の大石寺には国柱会を悪し様に批判するような宗内の論調は特に存在せず、むしろ登山してきた国柱会幹部たちを厚く遇するような態度を持っていたということになろうかと思います。