いつもみなさん、ありがとうございます。
東佑介氏の前述の記事には文章が一部紹介・収録されています。恐らくは『富士学林教学研究書』等からの引用なのかと思いますが、ここでは『宗教問題』40号から孫引きで紹介してみたいと思います。
「次に感応日月本迹の事、是れ亦釈迦と日蓮との相対に非ず、唯仏与仏の相対なり。下種仏とは挙ぐる所の自受用報身、脱仏とは二番已下今日の応身仏なり。是れ即ち本果の釈迦は本なり天月なり。二番已下の脱仏は迹なり池月なり判文なり」
(前掲書142〜143ページ)
この中で非常に興味深いのは、やはり「久遠元初自受用身は即日蓮の事なりとは、此一段甚だ以て不審なり」と日精が明言しているところでしょう。
更に加えて、日精の『随宜論』以降の著作として『日蓮聖人年譜』を挙げてみます。この中で日精は何と「但し三大秘法の時は久成釈尊を以て本尊とするなり」と述べているのです(『富士宗学要集』5-118ページ)。
『日蓮聖人年譜』には年号が記されていませんが、文中に「寛文十一年辛亥東夷起つて合戦あり」と書かれていますので、必然的に寛文11年以降、すなわち1671年以降の著作ということになります。
とすると、日精は敬台院の意向で造仏を行い、『随宜論』を著したのですが、その頃から既に「久遠元初自受用身が即日蓮とする教義に不審を抱いていた」ことになります。
そしてその40年近く後年になっても日精は「三大秘法の時は久成釈尊を以て本尊とするなり」と述べているのです。