気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

浜四津敏子のこと。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて2023年2月17日、突如として、元公明党代表代行の浜四津敏子氏の死去が発表されました。しかも亡くなったのは、その2年前の2020年11月29日です。同日付けの『公明新聞』や『毎日新聞』によれば、葬儀は家族葬で済ませ、遺族の意向で2年間公表を控えていたのだそうです。
 
 
浜四津氏の死が2年以上に渡り、伏せられていた理由を、公明党は「遺族の意向」としましたが、これに関して『週刊文春』2023年3月2日号、また『月刊 FORUM21』2023年3月号に気になる記事が掲載されていましたので、少しかいつまんで紹介したいと思います。
 
 
各誌によると、浜四津敏子氏は「理知的な顔立ちと爽やかな語り口で人気を博したが、激しい一面もあった」「1999年の自自公連立の際は『私は反自民でやってきた。自民と組むなら代表代行を降ります』と神崎武法代表(当時)に啖呵を切って取りなされる一幕もあった」(週刊文春・政治部記者)とのこと。
 
 
創価学会信徒に多大な負担を強いる衆議院からは撤退し、参議院と地方議員だけの政党であるべきだというのが、浜四津敏子氏の本来の持論です。また後々までイラクへの自衛隊派遣を公明党が認めたことへの反省も口にしていました。そうした姿勢が敬遠されたのかどうかわかりませんが、なぜか彼女は代表や幹事長には就けず、その知名度とは裏腹に党中枢からは外されていました。
 
2009年の衆院選公明党が野党に転落すると、翌年の参院選を前に浜四津氏は党から引退勧告を受けました。「任期中に66歳を超える場合は公認しない」という当時の内規が表向きの理由ですが、「代表代行という閑職にもかかわらず、婦人部の集票力をバックに正論をぶる浜四津氏に当時の井上義久幹事長らは手を焼いていた」(政治部デスク)のだそうです。
 
浜四津氏は引退後に政界と距離を置いて弁護士に復帰します。しかし衆院選で落選した太田昭宏元代表は引退しなかったため、浜四津氏は「太田氏は院政を敷くつもり」「山口(那津男)氏がしっかりしないと」と懸念していたことが書かれていました。
 
『月刊 ゲンダイ』2023年2月27日号では、慶應大学法学部で浜四津敏子氏と同期であった、評論家の佐高信氏が「追悼譜」を書いています。ここから少し引用してみたいと思います。
 
 
「旧姓高橋の浜四津と私は慶大法学部法律学科の同期生だった。2年余り前に亡くなっていたのに遺族の意向で党側が発表を控えていたというのだが、何か秘密めいたものが臭う。
そんな浜四津と、一度だけ、盗聴法反対の集会で会った。1998年11月17日、場所は星稜会館だった。創価学会婦人部にカリスマ的人気のある彼女は、そこでナチスドイツにおいて秘密警察が取り締まりの対象を広げ、反戦平和や環境保護運動にまでその手をのばしたことなどを引いて、いったん盗聴や秘密警察的情報収集を導入すれば「その本来の目的を逸脱し、歯止めが利かなくなるのは、古今東西の歴史の事実が証明している」と強調した。
間然するところのない見事な批判だったが、しかし、浜四津氏はそれからまもなく、態度を変えた。修正案で対象犯罪に限定がかかったなどと変節の理由を述べたが、それは自らの発言を裏切るものでしかなかった。「盗聴という手段には歯止めが利かない」というのは「修正は利かない」ということだからである。反対集会に出てこなくなったのは、自民党公明党が連立政権を組んだからだった。
1999年6月1日のテレビ朝日ニュースステーション」では、
〜あなたはもう忘れたかしら
という「神田川」の歌い出しにかぶせて、浜四津氏のこの反対発言を放送した。そして私は、浜四津の発言には賞味期限があり、半年も経たずにそれは過ぎたのか、と皮肉ったのである。
あるいは彼女も公明党創価学会)の無原則な方針転換に苦しかったのかもしれない。
浜四津が1997年に出した『やっぱりひまわり』(鳳書院)を引きながら、私は『世界』の2006年11月号に「公明党の原理的滑落」を書いた。滑落とは、登山などの際、自らの足場を踏み外して滑り落ちることである。公明党はまさに原理的に滑落してその存在理由を失った。
前掲書から浜四津の訴えを引こう。
「私は国連軍にせよ何にせよ、『軍』すなわち『軍隊』という考え方に対する根本的な発想の転換が必要だと思っている。核兵器の全面的な廃止と同じように、まず『軍隊』でなければならないという考えを捨てるべきだと思う。もっと言えば、世界中の国々から、本来は『軍隊』をなくすべきなのだと考えている。これまでは『平和のために戦争の準備をせよ』との発想であった。しかしこれからは『平和のために平和の準備をしよう』という方向に転換したい」
(中略)この浜四津の考えに私は全面的に賛成である。しかし、軍備拡大の岸田政権にブレーキをかけることなく容認してしまった現在の公明党と彼女の考えが全く違うことは明らかだろう。浜四津の死を隠したのは、改めてそのギャップに焦点が合わされることを恐れたからではないか。」
 
 
私がまだ活動家だった頃から、確かに浜四津敏子氏は婦人部から絶大な人気を博していました。恐らくは浜四津氏の考え方が現在の公明党の方針と微妙な齟齬をきたしていた部分はあったのだろうと思います。そう考えれば浜四津氏が党中枢から外されていたことも、また彼女の死が2年以上に渡って伏せられていたことも、その理由がわかる気がしてきます。