いつもみなさん、ありがとうございます。
下種仏法を広める教主としての仏と、末法の衆生との関係は、主師親の三徳から、以下のように拝察できる。仏が人々を成仏へと教え導く最初は、正法を説き聞かせて縁を結ばせ、成仏の種を心の田に下ろすことである(最初聞法下種・下種結縁)。日蓮大聖人の仏法は、成仏の根源の法である南無妙法蓮華経を直ちに説いて聞かせて、成仏の種を下ろすことができるので、下種仏法である。種を植えた人が植物の世話をして実りを得るように、仏は下種して縁を結んだ人々を、成仏まで責任をもって、守り教え導き育て、自らのもてるすべてを与える。それ故、仏は主であり師であり親である。そしてこの絆は過去・現在・未来と永遠に続く。大聖人は、南無妙法蓮華経を説き示して成仏への道を開いたことにより、御自身が末法の衆生に対して主師親の三徳をそなえていると、諸御抄で仰せである(237,355㌻など)。それ故、創価学会では、日蓮大聖人を末法下種の主師親の三徳をそなえた仏と仰ぎ、末法の御本仏として尊崇・帰依する。▷末法の教主/下種/本因妙」
となります。
ところが、大石寺26世堅樹日寛の『末法相応抄』を読むと、ここで説かれる日蓮本仏説はむしろ「釈迦と日蓮が一体である」とする本仏説になりまして、決して日蓮と釈迦を別仏と考えているようには文脈が見えないんですね。
具体的に引用してみましょう。
(同168)
つまり大石寺に古来より伝わっていたとされる日蓮本仏説は、保田妙本寺日我と同様、本来は釈迦と日蓮を同体異名と捉える本仏説なのでして、それが創価学会の出現以降、やや解釈が変化し、日蓮と釈迦の別仏説が出てきたのかと思います。