気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

会長と会員の心の距離。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて先日、原田稔会長の指導について、いろいろ書きましたが、すでに原田稔会長の頭の中は秋の衆議院総選挙に切り替わっているようです。
というのは、7月13日に原田稔氏は関西池田記念会館に行き、大阪代表幹部会を行い、翌14日には神戸市中央区の兵庫池田文化会館で、総兵庫代表幹部会に参加しているからです。17日には広島池田平和会館にまで行っています。



多くの方もご存知のように、衆議院小選挙区で大阪と兵庫は落とすことのできない最重点区です。そこに真っ先に入ったということになります。そしてその次に広島3区を擁する広島に入ったということでしょう。



そもそも選挙戦で組織を固めて、信任を得てきた指導者こそ池田大作その人でした。
池田大作戸田城聖亡き後、総務として創価学会の選挙を取り仕切ってきました。
昭和34年6月、池田総務の下、行われた参議院選挙では全国区で248万8千票の総得票数を集め、当時の公称会員数の2倍以上の票を叩き出しました。
そして6月30日、選挙の結果を受けて、組織が大きく変わります。当時青年部であった池田大作、北条浩、森田一哉龍年光が青年部参謀室を離れて理事に格上げになったのです。
つまり池田大作氏は選挙で実績を積み、青年部として創価学会組織を大きく変えていったのです。池田を中心とする青年部の台頭こそが池田の会長就任の大きな原動力となります。



そしてこの時期の池田大作の大きな特徴として挙げたい点は、こまめな地方指導です。彼は与えられた総務の職をフルに活用し、全国の組織をまめに動いて、顔と名前を全国に浸透させていきます。
戸田城聖死後の他の幹部たちは「会長は当分置かない」「我々で会長になりたいなどと考えている者は一人もいない」などの小泉隆氏や原島宏治氏の言葉を鵜呑みにして徒に牽制しあっているだけでした。ただ池田大作だけ、会長不在の空白期間を会長就任の事前運動の時期と捉えて精力的に動き回っていたのです。
加えて池田大作には若い頃の苦労もあって、どこか庶民的な魅力がありました。地方の会合にも積極的に入り老婦人にも気さくに話しかけ、笑いを誘うようなユーモアにも欠けてはいませんでした。多くの会員はそんな池田氏を慕うようになります。まあ、その庶民性が次第に虚飾だらけの指導者へと変貌していくのですが、多くの会員はそのことに気付きませんでした。池田氏にはそういう二面性があるのです。



翻って、原田稔会長の大阪や兵庫への指導をみると、単に大きな会場に入って大阪や兵庫の各会場と同時中継を結ぶだけのものです。
まあ、このコロナ禍の中で会員も活動が制限されますから致し方のないところなのでしょうけど、全盛期の池田大作なら各会場にどんどん足繁く入っていくだろうになあと感じました。



私は原田稔氏の指導を聞いたこともありますが、どうにも彼から庶民性とも言える気さくな部分を感じたことがありません。
例えば池田大作には大らかな庶民性がありました。他には秋谷栄之助氏の指導も個人的に聞いたことがありますが、彼は非常に大らかな性格で、人が集まりすぎてしまった会場で、「みんなこっちに上がろうよ」と男子部会員を壇上に上げ、自分の直ぐそばまで呼ぶようなことがありました。
秋谷栄之助氏のみならず、かつての幹部にはどこか庶民的な味わいというか魅力があったことも事実です。
柏原ヤス、小泉隆、和泉覚、辻武久、北条浩、森田一哉等々、どこか気さくで気軽に話せるような人柄を感じていたことも私の実感としてあります。



ところが、原田稔会長等、最近の幹部たちにはあまりそのような庶民的な部分を感じません。例えば池田博正、谷川佳樹氏らは庶民的な部分に乏しく、近寄り難い印象を覚えます(あくまで私の個人的な印象です。会ってもっと話したらまた印象は違うのかもしれませんが)。唯一、長谷川重夫理事長は、お涙頂戴的な浪花節のような指導をされますので、庶民的な人柄と言えば彼はそうなのかもしれません。



近年、原田稔会長への不満の声が組織から漏れ聞こえてくる理由は、会長と会員との間の心の距離の遠さのように感じます。
会員たちが会長に心を汲んでもらっていない、理解してもらっていないと感じ始めているのです。
原田稔氏自身もそれをどこか感じるからこそ、躍起になって池田大作氏の指導を取り出して、異体同心の鉄の団結を強調したりもするのでしょうけど、金科玉条のように池田氏を担ぎ上げるだけでは、かつての池田氏のような支持は得られないでしょう。