気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

御本尊の手。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、『清澄寺大衆中』(真蹟:身延曽存)という御書には本尊に関して不思議な一文が存在します。そのまま引用してみます。


日蓮敵をなして領家のかたうどとなり清澄・二間の二箇の寺・東条が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじやうの起請をかいて日蓮が御本尊の手にゆいつけていのりて一年がうちに両寺は東条が手をはなれ候いしなり」
(『清澄寺大衆中』創価学会版御書全集、894ページ)


日蓮が起請文の紙を「御本尊の手に結いつけて祈った」と書いているのですが、「御本尊の手」とは何でしょう?
そもそも曼荼羅本尊に手など生えてはいません(笑)。
これは例えば『神国王御書』(真蹟:京都妙顕寺蔵)の次の文を読むと、疑問が氷解すると思います。


「其の外小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし」
(『神国王御書』同1525ページ)


つまり日蓮にあっては、草庵に安置していた釈迦仏の像がそのまま「本尊」だったわけで、上述の「本尊の手に結いつけて」というのは、紙を釈迦仏像の手に結びつけて祈っていたということになります。


以前、多くの方からご指摘を頂いたことですが、日蓮曼荼羅で表した本尊は、仏像とで表現したことと同じ内容を表現していて、だからこそ三位日順が『本門心底抄』で「仏像を安置することは本尊の図の如し」と述べているのかと思います。