いつもみなさん、ありがとうございます。
さて龍樹の『中論』第24章18偈に次のような一節があります。
yah pratityasamutpadah sunyatam tam pracaksmahe
sa prajnaptirupadaya pratipatsaiva madhyama
これを中村元氏は以下のように訳します。
「どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。」
この訳し方に対して問題提起をされているのが、東京大学東洋文化研究所の山本伸裕氏です。彼はここで説かれる「prajnapti」の語を、漢訳仏典から伝統的に「仮」や「仮説」「仮名」と訳すことに疑問を投げかけています。
山本氏によれば、この「prajnapti」の語は「知らせる」という意味を持つ語根から派生した語であって、「仮」という意味合いは含まれないことを指摘します。したがって山本氏はこの語を「言葉を紡いで知らせるはたらき」と訳しています。氏の訳を当該の偈に当てはめると以下のようになります。
「およそ縁によって生起するもの、それを空性と見る。それは『(言葉を紡いで)知らせるというはたらき』によっており、それこそまさに『中道』である。」
この偈には空仮中の三諦と解釈されてきた中国仏教の歴史がありますが、そこに彼は異を唱え、空として言葉を用いていくことの意義を積極的に認めようとしています。
私は実は彼の見解に大変共感するもので、言葉そのものを否定しても言葉の網によって意味が縁起的に派生するという事態は否定し難いのではないかと考えているのです。
天台教学においては空仮中の三諦は核心的な中心教義ですが、その本来の意図を龍樹を読み解くことで、念仏の意図を解くことができるように今は思えてなりません。その意味で、『十住毘婆沙論』につながる念仏の思想は、まさに言語の限界を知り得た後の言語の積極的な使用という「称名」なのだと思います。
参考文献
山本伸裕「龍樹の『思想』から親鸞の『方便』論へ」東洋文化研究所紀要160所収、2011年