気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

多様な仏を許容する浄土教。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて私は念仏思想を最近になって重視する者なのですが、龍樹の『十住毘婆沙論』を読むと、決して阿弥陀仏一仏のみの帰依を主張しているわけではないことがわかります。



日本の浄土教になると、多くは「弥陀一仏」の考え方を採り、無量寿仏への信を強調したりするようですが、龍樹はここで信仰というより尊敬を説いていると考えられます。
中村元氏の見解によるなら、浄土経典で説かれているのは心の「プラサーダ」(prasada)なのであって、それは「信」と訳されることもありますが、「心が澄み切って明るく軽やかになった状態」なのだそうです。



そんなわけで、浄土経典というものは、本来、阿弥陀仏一仏のみへの信仰の絶対性を説いてはいないということになります。説いているのは無量寿仏を念じてその名前を聞くならば極楽往生することができるというものです。
したがって、本来の浄土教は排他的な教えではないのです。他の仏や他の教えを許容するのが浄土教の考え方になります。



実際に阿弥陀仏は「無量光仏」や「清浄光仏」等、多様な別名を持つ仏でもあります。また無量寿経では最初の方の釈迦の説法で多種多様な仏の名前が現れます。蛇足ながら法華経の観世音菩薩普門品では観世音菩薩の33の名前が説かれています。



本来の浄土教の考え方は、唯一神としての阿弥陀仏にあるのではなく、多様な名を持つ仏を受容することにあります。そしてその名号を唱えることによって極楽往生を願うというものです。



法華経では、例えば安楽行品の中で「教えに関して争いを好まない」姿が理想として描かれています。



「安楽行品について」



本来、龍樹の考えた念仏にせよ、多様な仏の名を認めるもので、そこには排他的な考え方は見られません。どんな信仰も信仰として受容して良いのではないかということを私は龍樹から学びました。
翻って創価学会等の大石寺系教団の排他性や独善性、その無反省ぶりを見るにつけ、彼らは法華経安楽行品にさえ違背する、教条主義的な教団なのだろうという認識が固定されつつあります。






参考文献
中村元『東西文化の交流』春秋社、1965年
浄土三部経』(下)中村元早島鏡正紀野一義訳註、岩波文庫、1964年