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「仏法に無量の門あり。世間の道に難あり、易あり、陸道の歩行は則ち苦しく、水道の乗船は則ち楽しきが如し。菩薩の道もまたかくの如し、あるいは勤行精進のものあり、あるいは、信方便の易行をもって、疾く阿惟越致に至るものあり。」
ところで、仏教研究者として知られる細川巌氏は、著作『龍樹の仏教』において、次のような不思議な説明をしています。
「難行道に対して易行道があって、難行道の実行できない愚者が、代りに易行道を行ずるというのではない。人間われらにおける唯一の道がついに易行道である。したがって、もし難易ということばを用いるのであれば、難に対して易があるのではなく、易にいたるまでの道程を難というのである。易行道にゆきつくまでが、難行道という過程である。人は努力し精進しながら、しかも前進せず、かえって退きすべり落ちてゆく、つまり行きつ戻りつである。その道程が難行であって、この難行道のはてに、ついにいたりつくところが易行の一門である。難行道と易行道とが平行して並んであるのではなく、易行道にいたるまでが難行である。したがって、難行道なくして易行道は展開されない。
このように、難易二道を思うとき、真の仏法の展開は易行道において始まるのであって、難行道は、その入り口をいうものであることがわかる。そのとき、さきの『仏法に無量の門あり』という龍樹のことばは、あらゆる道が易行道に通じていること、すなわち、創価学会も立正佼成会も、はたまた他の宗教も、あらゆる科学までも、それらはすべて真の仏法への入口の役割をするものであると見ることができる。私はこのように受けとめて『仏法に無量の門あり』ということばに、広大な意味を感ずる。」
(細川巌『龍樹の仏教』158〜159ページ、ちくま学芸文庫、2011年)
つまり浄土門の教えにあっては、迷いながら他の教えを求めて彷徨う時間もまた、仏道を求める道として認めていく、そして最後に易行道に至るという考えから龍樹の「仏法に無量の門あり」という一文を解釈しているということです。
自分たちのように考えないものを勝手に邪義邪宗と決めつける。正統な血脈が通うのは自分たちの教団だけだと強調し、他の教団にいるものには仏罰を説いて脅かす。
浄土真宗や龍樹の教えと比べて、なんと偏屈な、自己中心的な教えだろうと呆れるばかりです。
龍樹の『十住毘婆沙論』における易行品の真意は、仏道を求めて迷う衆生のさまざまな道程をも、それらが易行道にいたるための「無量の門」の一つとして認めることにあります。そこには他宗を"邪宗"などと呼ぶような狭量さはありません。
私のこれまでの創価学会での罪深い人生もまた易行道に行き着くための難行道であったのかとこれを読んで心から溜飲が降りる思いがしました。
宗教は何かという問いに答えられるほど私は賢明な人間ではありません。が、宗教は少なくとも人の心に救いをもたらすものであって、人の心に恐怖を与えたり、人の心を縛りつけるものではないはずです。