いつもみなさん、ありがとうございます。
さて戸田城聖氏や池田大作氏は以前から「仏とは生命である」という生命論を唱えていますが、そもそも仏を生命と捉え、宇宙に偏在する生命の実体と捉える考え方は、単なる仏教以前のバラモン教の考え方であり、それは単にウパニシャッド思想に過ぎないことを繰り返し指摘しています。
「仏教は生命論ではない」
「生命論に固執する人たち」
ところが、多くの創価学会員さんが、この「仏は宇宙に偏在する生命である」という考え方からなかなか脱却できません。中には大石寺の法華講信徒さんでさえ、この「仏とは宇宙に偏在する生命である」と考えている人もいるほどです。というのは法華講さんの活動家の多くが元創価学会員であることは少なくないからです。
「創価仏法の原点は、いうまでもなく戸田前会長の悟脱にあります。私が『人間革命』第四巻で書き記しておいたように、無量義経の三十四の『非』を呻吟しながら思索しぬかれた結果『仏とは生命なんだ! 生命の表現なんだ。外にあるものではなく、自分自身の命にあるものだ。いや、外にもある。それは宇宙生命の一実体なんだ!』という生命内奥から突き上げてくる歓喜とともに悟脱された瞬間こそ、将来において世界の哲学を変貌せしむるに足る一瞬であった。この一点をはずして今日の創価学会はの思潮の大河はない。すなわち、法華経はいうにおよばず、一切、八万の法蔵は、三世にわたり、人間を含め、宇宙、自然の森羅万象を貫く"生命"という実在を説いたものであると決定した瞬間に、創価哲学は開始されたのです。」
で、申し訳ないんですが、それらの「生命の実在こそが仏の本質である」とする考え方は、ウパニシャッド思想、バラモン教と何も変わらないものであり、私から言わせれば、なんら新しい思想でもなく、単に仏教以前の教えに帰ることと実質的に変わらないことだと思います。
創価学会員さんだけでなく、元創価学会員の法華講さんまでも「仏は生命」であり、「生命内奥から突き上げてくる歓喜」が仏の本質であるとわけのわからない勘違いをされている方がいるようですが、アートマンという自己が六処・十二処・十八界により、認識の束に過ぎないことを示したのが仏教の本来の意義であり、それを知らずに内なるアートマンと、大宇宙のブラフマンを結びつける思想こそ「仏教の本質」であるとするなら、単なる仏教の誤読に過ぎないと私は思います。