気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

創価・大石寺系教義の浅はかさ。

 

 

 

いつもみなさん、ありがとうございます。

 

 

 

さて私はいくつかの記事で書いているように、創価学会非活から退会を選び、その後、思想的変節を経て、現在は龍樹や親鸞の著作から念仏思想に接近しています。

 

 

 

「気楽非活の思想的変遷」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2020/12/31/124452

親鸞名号本尊について」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2021/01/29/151908

「涅槃と浄土」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2020/12/13/231020

 

 

 

では、なぜそうなってしまったのでしょう。

理由は明白で、創価学会、加えて大石寺系教団(例えば日蓮正宗顕正会、正信会等々)の教義の浅はかさに気づいてしまったからなんですね。

私が若かった頃は、広宣部の一員として対論用の資料を作成したり、法華講の家を家庭訪問したりとやりたい放題でした。

もともと私は本を読むのが好きでした。池田大作はしきりに未来部に「本を読もう」みたいなことを言っていましたから、その影響も大きかったと思います。

私は創価学会の元活動家として活動をしながら、法華経の思想やら日蓮の思想やら池田大作の思想とやらが世界に通用するという幻想を抱いていました。そしてそれを自分の言葉で説明できるようになりたいといつも願っていました。

今は亡き母によく言われたものです。

「自分の言葉で話しなさい。借り物の言葉を棒読みしても人はついていかないでしょ」

まさにその通りだと思います。私は自身の言葉で自身の信仰を語りたかったのです。

 

 

 

広宣部として活動をし、夜な夜な勉強会などをやっていた頃、徐々に創価学会大石寺系の教義に違和感を抱くようになってきました。学ぶにつれて、いろんなことを知るようになりました。

日亨の『富士宗学要集』には富士興門流系の文書が多く収録されていますが、例えば『御本尊七箇相承』を知るほど、その通りに多くの本尊が書写されていないことに違和感を抱きました。

 

 

 

戒壇本尊と『御本尊七箇相承』との相違」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/02/06/065121

「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」

http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/03/06/060449

「『七箇相承』の『書くべし』」 

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/11/23/000000

 

 

 

また多くの御本尊の両肩には「有供養者福過十号」「若悩乱者頭破七分」の2文が書かれていますが、この文章は法華経の文章ではないことに気づきました。この2つの文章は法華経ではなく、妙楽湛然の『法華文句記』の中の言葉です。また法華経には全く関係がない天照大神八幡大菩薩が書かれ、不動明王愛染明王梵字で書かれています。

私にあっては、全てが批判対象でした。検討して信じるに値するものしか信じられないと思いました。

私はそれをこのブログ執筆を通じて実際にやってみました。

 

 

 

結果としてわかったことは、私の考える言語思想を支えるバックボーンとして、創価学会大石寺系の教義はあまりに稚拙すぎ、どうにもならないということでした。

池田大作の「御本尊=宇宙生命」論は、単なるウパニシャッド思想の焼き直しと同じですし、そもそも本尊に唱題する意義を「宇宙の法と自身の生命との合致」と考えるなら、日蓮仏法は仏教以前の六師と同じことになってしまいます。日寛教義で言うなら、「五重の相対」の最初の「内外相対」で否定したはずの「外」に戻ることと同義です。

 

 

 

「宇宙生命はバラモン教の教え」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/09/25/000000

「仏教は生命論ではない」

http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/02/24/060753

「生命論に固執する人たち」

http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/11/08/000000

 

 

 

なんだか最近の法華講さんにも「南無妙法蓮華経は宇宙の生命の法だ」みたいなことを言いだす人がいますけど、これなどは完全に創価学会からの思想の逆輸入だと思います。それにそもそも昭和54年頃に福島源次郎は池田大作の宇宙生命論を「ウパニシャッド思想に過ぎない」と既に当時から同じ文脈で批判していたはずです。

 

 

 

そもそもの創価学会が御利益信心であり、現世利益を強烈に主張して布教活動を展開していました。

それでいけばまだよかったんでしょうけど、だんだん余計な尾ひれがついてきて、原島嵩さんや川田洋一さんたちとともに「仏法は生命」とか、知的なアクセサリーをつけだしたのだと思います。いわゆる52年路線もこの結果生まれたものでしょう。「創価学会の会館は現代の寺院」とか「在家でも供養は受けられる」とかその辺ですね。

 

 

 

私はもう既に法華経信仰からも日蓮信仰からも離れています。私個人にとって法華経はもはや読むに値しません。

ただ他の信仰者の方々が妙法蓮華経を手に取って、信仰の道に入ることは構わないと思いますが、それなら私は今こそ道元を再評価すべきだと思っています。

 

 

 

曹洞宗は『不立文字』ではない」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/01/02/000000

 

 

 

日蓮が不立文字として批判したのは中国の禅であり、日本の曹洞宗ではありません。日蓮遺文には道元に関する言及が一切ありませんので、日蓮道元を知らなかった可能性が高いと考えられています。そして道元法華経を最上の経典と位置づけ、『正法眼蔵』で摩訶迦葉への教外別伝の考えを否定しているのです。実際、曹洞宗では日蓮系教団と同様に法華経如来寿量品も読誦します。

日蓮法華経を自身の法難と絡めた神話的な理解が目立ちます。真に法華経を純粋に読み、実践をするなら、私には道元の方がずっと純度が高い、真実の法華経の実践者に見えます。

 

 

 

閑話休題創価大石寺系教団の教義のベールを一枚一枚剥いでいって、残った結果が何も残らなかったというのが、偽らざる私の実感です。

私の考える仏教思想の深みは四聖諦と十二支縁起と六処にあり、避けられない苦をいかに克服するのかということこそが本来の仏教の考え方であったと思っています。

 

 

 

「初期仏教のこと」

http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/09/19/000000

「四聖諦と十二支縁起と六処のこと」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/09/24/000000