気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

戒壇本尊と『御本尊七箇相承』との相違。

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いつもみなさん、ありがとうございます。


さて弘安2年戒壇本尊が画像解析の結果、弘安3年日禅授与本尊のパッチワークによる模造でしかないことは先日、ブログで書きました。



ところで、それでも構わないという方もいることはわかります。
曰く「日禅授与本尊は疑いなく日蓮真蹟本尊であり、その模写なら問題はない」ということです。
確かにそうですよね。日蓮門流なのであれば問題はなさそうです。
しかもあの大きさの板に彫るということは本当に大変な信仰心からだったと私も思いますし。



でもね、私が上記のブログで問題にしたのはそういうことではないんです。
そうではなくて、日蓮造立でないものを「日蓮真作」と偽り、日蓮造立でないものを「究竟の尊体」「唯授一人の相伝」「帰命依止の大御本尊」と偽り、自山の権威の偽装のために利用した、そういう日蓮正宗大石寺の姿勢を批判しているのです。
悪いのは信徒ではありません。
戒壇本尊を自山の権威の偽装に利用して信徒を騙して嘘をついている、日蓮正宗大石寺の姿勢こそが批判されるべきなのです。



日蓮の真作でないものを「日蓮筆である」と平気で嘘をつける感覚を私は軽蔑します。
およそ宗教者としての誠実さに欠ける振る舞いです。
それは純粋に信仰している信徒の方を騙す行為なのではありませんか。
純粋な信徒の方をあまりに愚弄しているではありませんか。
私はその大石寺の姿勢は批判されるべきだと考えます。



すでに弘安2年戒壇本尊が弘安3年日禅授与本尊のパッチワークであるという事実は否定のしようのない決定的な"事実"です。そしてその事実をひた隠しにし、信徒に対してそれが日蓮真筆本尊であるかのように嘘を言い続ける行為はおよそ宗教者としてあるまじき行為であり、日蓮を利用する行為であり、また戒壇本尊の本来の造立者"弥四郎国重"に対しても、礼を失した行為であると私は考えます。



もはや後世の創作説は揺るがないと考えますが、今日はあくまで傍証として戒壇本尊の文体からいくつか『御本尊七箇相承』との矛盾点を書いていきたいと思います。
どうか一人でも多くの日蓮正宗信徒の方が、真実に目を向け、本当のことに目覚めてほしいと願ってやみません。これ以上人生を無為に費やすことはありません。弘安2年本尊は偽物なのです。



1、有供養者福過十号と若悩乱者頭破七分

画像を見てください。画像は弘安2年戒壇本尊の字配です(柳澤宏道『石山本尊の研究』より)。
戒壇本尊には両肩の部分に「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」という文章が存在しません。ちなみにこの文章は中国天台宗第6世妙楽大師湛然の『法華文句記』中の言葉です。
しかしながら『御本尊七箇相承』では「上行・無辺行と浄行・安立行と毘沙門との間には、若悩乱者頭七分・有供養者福過十号と之を書くべし」とされています。
よってこの時点で戒壇本尊はもはや偽作であると断じてよいでしょう。



2、仏滅後二千二百二十余年

画像を見るとわかりますが、弘安2年の戒壇本尊では右下の年数が「仏滅後二千二百二十余年」となっています。
ちなみに『御本尊七箇相承』では

「師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるる儘書写し奉るこそ御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」

とされています。
つまり「仏滅度後二千二百三十余年」と書くべきところが、戒壇本尊では「仏滅後二千二百二十余年」となっています。
言ってることの一貫性がないのは大石寺の特徴ですけど(笑)、ここまで違うともはや失笑するしかありません。
ちなみに創価学会の各家庭にある例の日寛書写本尊は「仏滅後二千二百三十余年」で、阿部日顕師の昭和60年以降の書写本尊でも「仏滅後二千二百三十余年」となっています。




3、日蓮在御判
『御本尊七箇相承』では以下のように書いてあります。

日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」

確かに弘安2年戒壇本尊も日蓮と書いてちゃんと花押も入っているんですが、問題は日興門流で、ちゃんと書いてない人もいるんですよ。


最大の問題点は大石寺第三祖・日目の元弘3年10月13日書写本尊(柳目妙教寺)なのですが、「日蓮御判」と書くべきところに「日蓮聖人」と書いてあります。
第三祖日目が「日蓮」と書いていない時点で「御本尊七箇相承』と相違します。
日蓮正宗の方は一体どう考えるんですか。
こんな一貫性のない教義しか提示できない大石寺なんて信用できるわけないじゃないですか。
「代々の聖人悉く日蓮」なんて後世の偽作の教義でしかないんですよ。
つまり日目と日興の在世中には『御本尊七箇相承』は存在しなかったと考える方が自然でしょう。だいたい日目自身が『御本尊七箇相承』通りに御本尊を書写していない、そしてそれを日興自身が黙認しているというのは大きな問題のはずですから。


大石寺信徒の皆さんは、日蓮正宗の欺瞞性にそろそろ気づいた方がいいと思います。
これ以上人生の時間を無駄に使わないように、早く日蓮正宗から抜けて純粋な信仰に目覚めることを願っています。
なお法華講の方が、真剣にこのブログの記事を読むことは日蓮正宗の教義的には謗法になりますので(笑)、あまり読まない方がいいですよ〜☆
そんなに真剣に読んじゃいけません! そこの法華講のあなた、「謗法」ですよ☆





追記:
実は御本尊の相貌の問題点は、他にも論点はたくさんあります。
例えば「八大龍王」という言葉一つとってみても、戒壇本尊の相貌では「大龍王」となってて「八」の字は抜けています。ちなみに創価学会会員の自宅に安置されている日寛書写本尊では「八大龍王」となっています。
つまりそれだけ御本尊の書き方については、日蓮正宗では諸説入り乱れてしまっていて、一貫した教義を提示できていないというのが現状です。あまりに信徒のみなさんをバカにした行為だと思います。
もとより思想・信条、そして宗教に関しては何を信じるのも自由です。
そうだとするならば、少なくとも日蓮正宗は信徒のみなさんに対して一貫した教義を提示する義務があるはずです。
それにもかかわらず、
三宝は一貫していない、
僧宝が何なのか歴代の法主で言っていることが違う、
御本尊の奉安様式が昔からの信徒と今の信徒で違う、
客殿と御影堂とで御本尊の奉安様式が違う、
根本の弘安2年本尊の相貌と相伝書の『御本尊七箇相承』の記述が違う、
相伝書の真蹟さえ何一つ大石寺に伝わっていない、
…………これじゃ、信徒の方がかわいそうですよ。あまりに信徒を愚弄していませんかね。