気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

『御義口伝』から離れること。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
ところで、創価学会大石寺系の信者さんは、日蓮系なのにほとんど法華経を読まない人ばかりです。
彼らは偽書でしかない『御義口伝』ばかりをありがたがっては、『御義口伝』またそれを利用した池田大作氏の『法華経智慧』等ばかりを読み、肝心の法華経は全く読んだことさえないありさまです。そんな信徒がたくさんいます。
 
 
そもそも『御義口伝』が後世の偽作でしかないことは、このブログでも繰り返し述べているところです。
 
 
大石寺写本『御義口伝』の改竄」
 
 
「『御義口伝』の信憑性の低さ」
 
 
「『弘安元年正月一日』という日付は存在しない」
 
 
「『御義口伝』末文の削除」
 
 
そもそも『御義口伝』で引用されている徐行善の『科註妙法蓮華経』の刊行は1295年(日蓮没後13年)です。生前の日蓮がどうやって自身の死後に刊行された文献を読んで引用できるというのでしょう?
また弘安元年とある筈なのに、末文には弘安5年に選定された「六老僧」があるのも時系列として矛盾します。『御義口伝』は矛盾だらけの文献なのです。そもそも弘安の改元は2月29日であって、弘安元年に「1月1日」は存在しません。天皇践祚に合わせて元号をきちんと書いた日興が間違った元号を書く筈がありません。この点でも『御義口伝』は後世の偽作であると思います。
 
 
ところが、そういうことを言うと、『法華経智慧』等の池田大作解釈で『御義口伝』を学んできてしまった創価大石寺系信者たちは動揺したり反発したりします。彼らは「そんな筈はない」「書かれた思想が素晴らしければよい」のだとか言って自己弁護を図るのです。
『御義口伝』は論理の飛躍が多く、法華経の文字を字面から自由に解釈する書です。当然ながら法華経に述べていないことを勝手に解釈している印象が非常に強く、例えば普賢品の「作礼而去」は本来サンスクリット原典に存在しない詩句なのに、わざわざ特別な意義を持たせようとしています。「作礼而去」は鳩摩羅什による恣意的な付加なのであって、本来の法華経には存在しない語です。
 
 
「『作礼而去』について」
 
 
『御義口伝』をそのように鵜呑みにしてしまうと、そのような間違った字面だけの法華経の歪曲を安易に受容するだけの態度になり、法華経そのものの軽視になろうかと思います。ところが、彼らはそのことにさえ気づかないのです。それはまさに宗教的洗脳であり、自身の浅はかさに気づくことができない姿はもはや「洗脳」と言って良いでしょう。
 
 
 
私は若い頃、創価学会の活動家でした。当時の私もまた『御義口伝』を読み、感銘を覚えて『御義口伝』の研究ノートを作成していました。それは誰にも見せることなく、自身で教学の一つの到達点として個人的に完成させたいという思いでした。
しかし私が広宣部の活動から離れて非活になって以降、私はこの『御義口伝』の覚書を全て否定しました。私自身が『御義口伝』の偽作説を知り、これを根本にすることを否定せざるを得なくなったのです。
私は今まで学んできたことが全て「嘘」だったと知りました。私がやったことは全ての検証です。私は鳩摩羅什漢訳の法華経を一つ一つ読むようにしました。サンスクリット原典は読めませんから、その邦訳を片手に対照しつつ、読み進め、そこで初めて鳩摩羅什の漢訳と法華経の原典には乖離があることを知りました。鳩摩羅什法華経をきちんと訳してはいませんでした。確かに鳩摩羅什漢訳により法華経が広まった功績を肯定的に評価してもよいとは思いますが、私には方便品の「十如是」(本来は5つしかありません)や、普賢品の「作礼而去」(本来は存在しません)など、恣意的な鳩摩羅什の訳業に検証の必要を感じました。
 
 
全てを知るには相応の時間がかかりました。
私が非活メンバーになり、ブログを書き出すまでに数年の時間がかかっています。その間はひたすら文献を読んでいました。
そして母と父が亡くなり、私はブログを書く決意をしました。今まで学んで知ったことを少しずつ検証しながら気楽に書きたかったのです。
 
 
ところが、今の活動家たちは、創価学会の『御義口伝』偏重による法華経読解が、単なる偽作の教義だということを認めることができません。彼らは多くが洗脳されてしまっていて、池田大作の『御義口伝講義』や『法華経智慧』に何か優れた思想性があると信じ込んでしまっています。そんなものはありません。
池田大作氏の『御義口伝講義』や『法華経智慧』にあるのは、単なる大石寺26世日寛解釈による『御義口伝』と、ウパニシャッド思想の付加による仏教でも何でもない生命論があるだけです。生命論は単なるウパニシャッドバラモン教の教えであり、仏教で一番近いのは真言密教思想になります。彼らは密教を学ぼうとしているのでしょうか? そんなことさえ、彼らは指摘されても認めることができず、また洗脳が深く頑迷になってしまっているのです。
 
 
私は今でも文献を読み続けています。
私の願いは、多くの創価大石寺系信者が後世の創作教義の桎梏から離れて自由になることです。そしてそのためにはまず『御義口伝』を否定して、法華経を直接読むことです。
私はそれをやりました。それなりの痛みも伴いましたが、私はそのおかげで自由に思索ができるようになりました。