気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

自分自身を見つめて。

 

 

 

いつも、みなさん、ありがとうございます。

 

 

 

さて私は時々「なんでこんなブログ書いているんだっけ?」と自問する時があります。

みなさんはないでしょうか。

 

 

 

創価学会日蓮正宗の信徒団体の人間としてほぼ人生の半分近くをささげてしまった私の人生です。

最初は「なんか最近変だなあ」「活動やめよう」くらいから始まった非活生活。そして検証の末の退会。

でもそんなことをやるならブログを書く必要もなかったはずです。

やはり私の中には「認められたい」という、強い承認の欲求があったように感じます。今もそうなのでしょう。

 

 

 

活動から遠ざかった創価学会員が、創価学会単体を批判する場合(どう批判しようが個人の勝手なのですが)、「自分は正しい」「自分たちの正義は正しい」「日蓮正宗の教義は正しい」「池田名誉会長は正しい」と、何かの正統性の担保を自分につけて批判することが多いように思います。

私もそうだったのかもしれません。ただ私は何度かこのブログで書いているように、自分が活動家としておぞましいほど布教活動に挺身し、広宣部として諜報活動や尾行などをしてきた過去を悔い改めたいという思いが強かったです。

 

 

 

確かに池田大作も悪い、創価学会も悪い、大石寺も悪い、けれど私も悪いのです。私も私の人生を私の責任で間違えたのです。

 

 

 

私は「正しい本尊は存在しない」と思っています。また「正しい法を求めさまよう」姿勢こそ、ナーガルジュナによってすでに否定されていると思います。少なくともナーガルジュナから始まると言われる北伝仏教(大乗仏教)の本質は、そのような絶対や常住の何かを否定するところから始まっているのだと私は考えています。

 

 

 

最近の私は、親鸞を読むことが多いのですが、彼の言う「即得往生」の概念に興味を惹かれました。

日蓮系の思想ばかり読んできた自分はてっきり彼の「即得往生」はいわゆる「現世往生」なのだと思っていました。けれどもどうも実際は違うようで、親鸞にあっては念仏によって「往生する位を得る」ことができるのだそうで、そしてその人が臨終のときになって初めて真に「往生」するのだそうです。

ではなぜ、このような「即得往生」が親鸞にあっては説かれたのでしょう。

 

 

 

法然親鸞の生きた時代というのは、騒乱の時代です。

永承7年(1052年)は「末法」の開始と考えられていまして、終末論的な「末法」思想が広まっていきます。

そして保元元年(1156年)には保元の乱、平治元年(1159年)に平治の乱が起こります。これによって貴族統治から武家政治へ変わりまして、社会の劇的な変化が起こっていた頃です。

親鸞の幼少期には、治承4年(1180年)に後白河法皇の皇子・以仁王が挙兵して「治承・寿永の乱」が起こります。これにより平家打倒の狼煙が上がることになります。

また翌年の養和元年(1181年)には「養和の飢饉」が起こっています。この飢饉の酷さは『方丈記』に「築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち有様、目もあてられぬ事多かり」とまで書かれるありさまで、京都市中に遺体が放置され、市内での死者は4万人を超えたとさえ言われています。

 

 

 

そのような戦乱と混乱の時代にあって、この世の終わりを人々は強く意識していました。

そのような混乱の中で、人の人生はいつ終わるともしれない。明日のわが身さえ、自分の命さえどうなるかわからない。「平家にあらずんば人にあらず」とまで栄華を極め尽くしたあの平家が壇ノ浦で滅亡してしまう。安徳天皇まで入水して果てるという、そのような社会にあって、「人の命は儚いもの」だと考えたとしても何の不思議もないでしょう。

 

 

 

法然親鸞の人生観には、そのような人生への諦観のような冷静さが漂っているように感じてなりません。

 

 

 

翻って、自分の人生を顧みてみれば、なんと無意味なことをしてきたのでしょう。

何千万遍というお題目を生涯唱え続け、大声で近所迷惑も考えずに題目を唱え続け、布教活動に挺身し、電話帳片手に片っ端から選挙支援の電話をかけ、選挙のお願いをしに各地を転々とし、顕正会妙観講の方々と対論をしたりしてきました。

全部が無意味でした。何の意味もありませんでした。

幼少時、大病を患っていた私を母は発作中にもかかわらず、大石寺につれていき、正本堂で御開扉を受けさせました(子どもだったのにきちんと正装してまで行ったことを思い出します)。その後、大石寺の境内で水を飲んで休みました。発作が起こって倒れるかと思いましたが、幸い持ちこたえました。それを「功徳」であると私と私の家族は信じ込みました。その思い込み、信じ込みだけで何十年も人生を生きてきてしまいました。

その全てが単なる思い込みであり、誤りでした。

 

 

 

私は、このブログ執筆当初、日蓮の教えを純粋に求めようとしました。

しかしそれも誤りでした。私自身が正統性を担保したいという自己保身の心に絡め取られてしまったのでしょう。

私の心は今は日蓮から離れています。同時に自分の人生の無意味さを見つめ、心静かに念仏を唱え、決して知ることのできない無分別の境地を想像しつつ、即得往生のような境地になれればいいなと願うだけです。

 

 

 

母も父も失くした私は、ただ静かに自分の人生を見つめ、そして両親の菩提を弔いたいと純粋に願うだけです。

母が生きていたら、きっとこのブログのことも認めてくれるでしょう。私が人生でどんな選択をしても、その選択を母が否定したことは一度もありません。