気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

悪いと思わない人たち。

 

 

 

いつも、みなさん、ありがとうございます。

 

 

 

さて、私はこのブログでいろいろ書いて、大石寺系・創価系教団の教義を批判し、現在は龍樹や親鸞を根本とする念仏信仰を求めようとしています。

 

 

 

私はこのブログで創価学会の教義の変節を批判したりもしますが、最近気になるのは、そのことを「さして問題視しない人たち」の存在です。

これは大石寺系の法華講信徒さんもそうなのですが、文献的な批判をすると「それのどこが問題なの?」と平気で言うような人たちが一定数存在するということです。

 

 

 

例えば創価学会は2014年11月に教義会則を変更し、戒壇本尊を「受持の対象としない」ことを明確にしました。

私はそもそも戒壇本尊への信憑性の低さを当ブログでいろいろ書いていますので、それは最も当然な判断であるとは思います。私がむしろ批判するのは

 

創価学会がそれまで主張してきた本尊義と矛盾する」という点、

 

そして

 

「そもそも創価学会本部にある常住本尊は大石寺64世水谷日昇が書写したものであり、これを拝むということは戒壇本尊義を実質的に黙認するということと同義になる」

 

という2点に要約されます。創価学会戒壇本尊を「受持の対象としない」とは言いましたが、「戒壇本尊は日蓮の真作ではなく偽物である」とは公式に認めていないのです。

 

 

 

ところが、そんなことを述べても、彼らの中には「それが別にどうかしたの」という態度の方が一定数います。

こういった人たちの態度を見るにつけ、私は「ああ、私とは全く違う種類の人たちなのだ」と思います。彼らは私の論理の方へ降りてくることができず、自分たちの論理に上がってくる人間だけを相手にしているのです。そしてそのことを自覚できていないのです。

 

 

 

例えば2015年9月5日に創価大学で開催された「日本宗教学会第74回学術大会」で、宮田幸一氏(創価大学教授)は次のようなパネル発言の要旨を書いています。

 

 

 

「学問的研究と教団の教義―創価学会の場合

昨年創価学会は、会則の教義条項を変更した。創価学会は長年日蓮正宗の信徒団体として日蓮正宗の教義を信奉してきたが、日蓮正宗から分離した後、どのように独自の教義を形成していくのか不明であった。今回の改正では、戒壇本尊論が日蓮遺文の中では正当化できないという論法で、その議論を否定した。この論法は日蓮思想研究における学問的成果を受け入れた上で、教義形成を進めるという創価学会の方向性を示したということができよう。この方向性にはさまざまな困難が伴うが、その困難のいくつかについて検討したい。」

(宮田幸一「日本宗教学会第74回学術大会 パネル発言要旨集」より)

 

 

 

つまり創価学会の「戒壇本尊を受持の対象としない」という教義会則変更は、「戒壇本尊が日蓮遺文の中では正当化できないという論法で」戒壇本尊の受持を否定したことを公式に認めています。

私からすれば、「そうであるならなぜ大石寺64世・水谷日昇の本尊を根本にしているのか」「そうであるならなぜ創価学会は公式に『戒壇本尊は偽作の可能性が高い』ということを原田会長の口を通して発言しないのか」ということが強い疑問として残ります。ところが宮田幸一氏はそういった疑問など全く抱かず、この2014年の教義改正を「学問的成果を受け入れた上で教義形成を進める方向性を示し得た」という点で積極的に評価しているように見えます。

 

 

 

つまり宮田氏もまた他の学会員と同じ精神構造であって、「それのどこが問題なの?」と言って憚らないのでしょう。何が問題であるのか、こちらの論理に降りてこないのです。

 

 

 

幹部と部員の意識のずれなどというものは、昔から創価学会にあったもので、よく言い合いの議論をしていたのを私は昔からよく見て知っていますが、こと本尊義の変更に関しても創価学会幹部たちは「それのどこが問題なのだろう」という顔をして平気でいます。つまり外の意見に対して自分たちが反省するということができないんですね。

これは大石寺系教団信徒によく見られるところでありまして、彼らはどこかで思考停止してしまっているのだと思います。こちら側の意見を聞いて、自分たちの外部の論理に降りていき、「なるほど、確かにそれはおかしいですね」と言えるなら本当の対話かと思いますが、「自分たちは正しい。なぜならちゃんとやっているからだ」という無意識のドグマがあって、会話が成立しないことが一部の創価学会員や法華講信徒さんにはままあるのです。

 

 

 

戒壇本尊の正統性が学問的見地から担保出来ないことを創価学会が公式に認めたのであれば、やはり創価学会日蓮宗身延山に公式に謝罪をすべきであると思います。それまで小樽問答をはじめ、多くの創価学会員が戒壇本尊の正統性を持ち出して身延山日蓮宗を「邪宗」呼ばわりしてきたことはきちんと謝罪して清算すべきでしょう。

また創価学会大石寺64世水谷日昇本尊を学会常住の本尊とする教義を白紙撤回すべきでしょう。大石寺法主の書写した本尊というものは基本として「戒壇本尊を書写したもの」となっているのですから、それを根本尊敬として本部の本尊とすることは矛盾します。

ところが、そういった当たり前の議論を当たり前のこととして受け止めることが多くの創価学会員にはできない。「確かに私たちが間違っているかもしれませんね」と認めることができない、そういう精神構造を醸成してしまっている組織こそが創価学会、そして大石寺日蓮正宗という教団なのでしょう。