いつもみなさん、ありがとうございます。
さて、私はブログ開設当初、創価学会非活動の会員として、教義の検証をかねてこのブログの記事を書き始めたようなところがあります。
今はすでに創価学会を退会していますが、当初は日蓮の教えとは何なのか、大石寺系教義のどこがおかしいのか検証をしていました。
私の最大の誤りは、当初、日蓮を絶対視していたところです。
検証を進めるにつれ、日蓮の教えというものがいかに仏教とかけ離れたものがあるかがわかってきました。
私が検証した結果、現在考えている日蓮思想とは以下のようなものです。
1、日蓮は大前提として日本古来の神道を深く信奉しており、天照大神や八幡大菩薩の加護を深く信じていた。
2、日蓮は国家の奉じる宗教に法華経を用いるべしと考えており、かつて比叡山が国家権力と結びついたのと同様に、自身が国家に重用されて加持祈祷を行うべきだと考えていた。したがって「折伏」とは国家権力としての「賢王」が行う行為であり、僧侶となって法を弘持するのは僧である日蓮の役目となる。
3、このような極端な国家主義ともいえる日蓮の思想は、儒教の影響を強く受けており、とりわけ『貞観政要』における帝王学が日蓮の行動原理の一つになっていることは諸御抄から推察できる。
4、比叡山の再興を願う日蓮の法華経解釈は、基本的に中国天台宗の教義を原則としており、とりわけ妙楽湛然の影響が強い。また法華経そのものの解釈も天台の影響が強く、法華経の読解も道元などと違って、自身の教義のために解釈する、曲解の要素が強い。
とまあ、上のようになります。
もちろん鎌倉時代の混沌とした情勢の中にあって、『立正安国論』では比叡山の凋落の様子が描かれています。日蓮自身、比叡山が見るに耐えない窮状になっていることを憂い、法華経中心の国家を夢見たことは自然なことでしょうし、その思い自体が悪いとは思いません。
ただそれが仏教の本質なのかと言えば、それは違うと思います。法華経安楽行品では仏法者が為政者とかかわることを禁じています。だからこそ日蓮が国家とかかわることを強調する発想は、すでに仏教ではないのです。
私にとっての問題は、その現実を知ってなお日蓮の考える法華経中心思想を信じるのか、それともそれらから離れるのか、という点でした。
私は今さら執着するものなどないと考え、日蓮から離れました。
他の方々が日蓮の思想を深め、日蓮によって立正安国の世界を実現しようとすることは構わないことでしょう。
しかし私は仏教を求めたかったのであって、儒教を極めたいわけでもないし、日蓮や天台解釈の法華経を信じたかったわけでもありません。日蓮の神話作成のために法華経が存在するわけでもないですし、まして法華経が「生命の法」を説くために説かれたとする池田大作らの主張は、単なるウパニシャッド思想であって、仏教以前の六師の思想に戻ることにしかなりません。まして「法華経=生命」が日蓮の思想などと言うなら、それこそ牽強付会も甚だしいというものです。それなら日蓮の思想は彼が否定した「外道」と同じになってしまいます。
追記:
上記、日蓮思想
1の補足のために
「天照大神は東条の郷に住まう」
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2019/01/05/000000
2の補足のために
「加持祈祷」
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/03/18/000000
「承久の乱について」
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/10/15/000000
3の補足のために
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/06/08/060417
「『貞観政要』のこと」
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/01/15/000000
4の補足のために
「『一代聖教大意』から見る日蓮の一念三千説の理解」
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/02/23/045244
「『有供養者福過十号』と『若悩乱者頭破七分』」
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/12/16/000000
「十界の成立について」
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/12/30/000000