気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日寛の強調する大石寺の法水は。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて現在の創価学会が各家庭に頒布している本尊は、大石寺26世の堅樹院日寛書写の本尊の写しになります。



現在の創価学会は、大石寺奉安堂蔵の戒壇本尊を「受持の対象としない」のですが、各家庭にはその戒壇本尊を写した(という教義になっている)大石寺法主の書写本尊が置かれていることになります。


創価学会としては、日寛の教学に関して、時代にそぐわないものに関しては部分的に換骨奪胎して、有効なもののみを使うように考えているようです。
ただそれは、日寛の教義と言えるのでしょうか。
一部の文章を切り貼りして、繋ぎ合わせて教義を形成しても、別の部分と矛盾が出てきてしまうなら、それは改竄や歪曲になってしまうのではないのでしょうか。



例えば日寛は『六巻抄』中の『文底秘沈抄』で、次のように述べているのを、現在の創価学会員は見て見ぬふりをするのでしょうか。



「蓮祖の御心寧ろ謗法の処に住せんや、故に彼の山を去り遂に富山に移り倍(ますます)先師の旧業を継ぎ一塵の汚れ有ること無し、而して後・法を日目に付し日目亦日道に付す今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如し清浄の法水断絶せしむることなし、蓮師の心月・豈之に移らざらんや、是の故に御心・今富山に住するなり」
(日寛「文底秘沈抄」『六巻抄』102ページ、創価学会版、昭和35年


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創価学会の2代目の会長である、戸田城聖氏が「教学は日寛上人の時代に帰れ」としきりに述べていたことは夙に有名ですし、池田大作氏もまたそのことを強調して指導していた筈です。
その日寛が著作で、大石寺の法水瀉瓶の教義を強調し、大石寺歴代法主の付属を肯定していることは見て見ぬふりをするのでしょうか。
そしてその日寛が書写した本尊を各家庭に頒布することに矛盾は感じないのでしょうか。日寛は大石寺の付属について「清浄の法水断絶せしむることなし」「是の故に御心・今富山に住するなり」とまで述べています。



確かに大石寺の教義は後世に作られた偽装教義でしかないと私は思います。このブログの多くの記事で、考えてきたことからもそのことはよくわかります。
ただ創価学会本体が大石寺教義を乗り越える気を本気で持つというのならば、日寛の教義を全て否定し、一から教学を再構築しなければならないでしょう。そのような基本を軽視し、小手先の教義改変で済まそうとするからこそ、教学に綻びが生じていることを私たちは認識すべきだと思います。