いつもみなさん、ありがとうございます。
創価学会としては、日寛の教学に関して、時代にそぐわないものに関しては部分的に換骨奪胎して、有効なもののみを使うように考えているようです。
ただそれは、日寛の教義と言えるのでしょうか。
一部の文章を切り貼りして、繋ぎ合わせて教義を形成しても、別の部分と矛盾が出てきてしまうなら、それは改竄や歪曲になってしまうのではないのでしょうか。
例えば日寛は『六巻抄』中の『文底秘沈抄』で、次のように述べているのを、現在の創価学会員は見て見ぬふりをするのでしょうか。
「蓮祖の御心寧ろ謗法の処に住せんや、故に彼の山を去り遂に富山に移り倍(ますます)先師の旧業を継ぎ一塵の汚れ有ること無し、而して後・法を日目に付し日目亦日道に付す今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如し清浄の法水断絶せしむることなし、蓮師の心月・豈之に移らざらんや、是の故に御心・今富山に住するなり」
そしてその日寛が書写した本尊を各家庭に頒布することに矛盾は感じないのでしょうか。日寛は大石寺の付属について「清浄の法水断絶せしむることなし」「是の故に御心・今富山に住するなり」とまで述べています。
確かに大石寺の教義は後世に作られた偽装教義でしかないと私は思います。このブログの多くの記事で、考えてきたことからもそのことはよくわかります。
ただ創価学会本体が大石寺教義を乗り越える気を本気で持つというのならば、日寛の教義を全て否定し、一から教学を再構築しなければならないでしょう。そのような基本を軽視し、小手先の教義改変で済まそうとするからこそ、教学に綻びが生じていることを私たちは認識すべきだと思います。