いつもみなさん、ありがとうございます。
さてこのブログでは日蓮の教説に「民衆仏法」という側面は存在しないことを何度となく書かせて頂いています。
「日蓮は民衆仏法ではない。」
「日蓮は民衆仏法ではない。その2」
「日蓮における国家と宗教」
また日蓮の在世中に、信徒間の中心的な指導的役割を担ったのは武士たちです。
具体的に挙げてみましょう。
四条金吾頼基は、北条氏の一門名越光時に仕えた武士です。
主要な弟子・檀越を辿れば、日蓮の弟子には武家しかいません。比企能員は治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵するまでに20年以上も糧米を送っており、頼朝から領地をもらうに至ります。その息子が比企大学三郎義本です。
南部六郎(波木井)実長は地頭職にありましたし、工藤吉隆も進士善春も小松原の法難で日蓮を守って討ち死にした武士でしょう。
船守弥三郎について、多くの創価学会や日蓮正宗の信者さんは「伊豆流罪の際に日蓮を助けた漁師」「海中から出てきた釈迦像を日蓮に捧げた」という伝説を頑なに信じていますが、これは日蓮の死後、200年以上経ってから『日蓮聖人註画讃』から出てきた逸話です。日蓮の生前の文献に船守弥三郎が存在したという記録は現存しませんし、『船守弥三郎殿御書』は真蹟不存、京都本満寺に残る最古の写本は何と日蓮死後300年以上も後世に成立したものと言われます。
「船守弥三郎のこと」
日蓮は大師講で武家や僧侶たちに指導をしましたが、弘安4年の『地引御書』(身延曽存)で、晩年まで「一日経」(法華経全編を一日で書写する修行)を推奨しています。文字の読めない民衆の人たちのことは大師講では全く振り返られていないのです。