気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日蓮の門下の中心者は武士と僧侶であり、民衆は誰もいない。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さてこのブログでは日蓮の教説に「民衆仏法」という側面は存在しないことを何度となく書かせて頂いています。
 
日蓮は民衆仏法ではない。」
 
日蓮は民衆仏法ではない。その2」
 
日蓮における国家と宗教」
 
国家主義日蓮創価学会には都合が悪い?」
 
そもそも日蓮が結成した信徒組織は「大師講」です。メンバーは僧侶か武家たちです。
また日蓮の在世中に、信徒間の中心的な指導的役割を担ったのは武士たちです。
 
 
具体的に挙げてみましょう。
 
四条金吾頼基は、北条氏の一門名越光時に仕えた武士です。
 
富木常忍もまた武士です。鎌倉幕府における文書管理を任せられた文書官僚のような立場であったと考えられており、その経緯もあって日蓮に紙や筆の調達、また著作の補完等を任せられています。
 
太田乗明も晩年に入道となりますが、元々は武士です。武芸の才のみならず相当の学殖もあったがために日蓮富木常忍と太田乗明と曾屋教信らに『観心本尊抄』を送っています。
 
曾屋教信もまた武士で、下総曾屋郷の領主で千葉氏の家臣と言われます。貫名氏の外戚にあたるため、日蓮とは従兄弟の関係にあったとされます。
 
金原法橋は、弘安6年、日蓮滅後に幕府に抜擢された遠江端和城に移り、蒲の荘の領主遠藤氏の後を継いでいます。
 
池上宗仲と宗長の兄弟も武士です。父は池上左衛門太夫康光は、鎌倉幕府の作事奉行だったと言います。
 
主要な弟子・檀越を辿れば、日蓮の弟子には武家しかいません。比企能員は治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵するまでに20年以上も糧米を送っており、頼朝から領地をもらうに至ります。その息子が比企大学三郎義本です。
南部六郎(波木井)実長は地頭職にありましたし、工藤吉隆も進士善春も小松原の法難で日蓮を守って討ち死にした武士でしょう。
阿仏坊は、古来の伝説によれば、遠藤為盛といい、順徳上皇北面の武士とされます。
 
 
船守弥三郎について、多くの創価学会日蓮正宗の信者さんは「伊豆流罪の際に日蓮を助けた漁師」「海中から出てきた釈迦像を日蓮に捧げた」という伝説を頑なに信じていますが、これは日蓮の死後、200年以上経ってから『日蓮聖人註画讃』から出てきた逸話です。日蓮の生前の文献に船守弥三郎が存在したという記録は現存しませんし、『船守弥三郎殿御書』は真蹟不存、京都本満寺に残る最古の写本は何と日蓮死後300年以上も後世に成立したものと言われます。
 
「船守弥三郎のこと」
 
日蓮は大師講で武家や僧侶たちに指導をしましたが、弘安4年の『地引御書』(身延曽存)で、晩年まで「一日経」(法華経全編を一日で書写する修行)を推奨しています。文字の読めない民衆の人たちのことは大師講では全く振り返られていないのです。
 
日蓮法華経一部読誦や書写も修行法としと認めている」