気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

宗教的論争、正統性論争の愚かしさ。





いつもみなさん、ありがとうございます。



創価学会日蓮正宗等、大石寺系教団は、互いに互いの教団を批判しています。
私も元々活動家でしたし、また広宣部に入っていたこともあり、そのような「論争」やら「法論」を散々してきました。
今はそのような自身の姿勢を反省し、心静かに念仏を唱えることが多いのですが、果たして釈迦の本来の教えというのは、そのような正統性を争って議論をするようなものだったのでしょうか。



最初期に編纂された最古の仏典の一つ、『スッタニパータ』を読むと、そのような断定的に教説を主張することを釈迦自身が否定する部分が出てきます。
具体的には『スッタニパータ』第4章9節「マーガンディヤ」で、バラモンのマーガンディヤと釈迦が話す場面です。少し長くなりますが、示唆に富んだ文なので、引用してみたいと思います。



「(マーガンディヤがいった)、『もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、がほしくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?』
師は答えた、『マーガンディヤよ。『私はこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。』
マーガンディヤがいった、『聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、〈内心の安らぎ〉ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?』
師は答えた、『マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)』
マーガンディヤがいった、『もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても、清らかになることができない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。』
師は答えた。『マーガンディヤよ、あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執着したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたくしの説を)『ばかばかしい』と見なすのです。
『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、ーーかれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、ーーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。
そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるのであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するのであろうか? 『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。
家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。
竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。
ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導き入れられることがない。
想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」
(『ブッダのことば ースッタニパータ』中村元訳、岩波文庫、186〜188ページ)



ここで釈迦は宗教的論議、論争の愚かしさを明確に述べています。
さまざまな教義があり、その中で「これが正しい教えだ」と固執することは釈迦の本意ではないのです。そうではなくそれらに固執することなくつとめ、心に平安を求めることこそが真の意味での仏教の「中道」なのだと言ってよいでしょう。



だからこそ仏教の真実を求めた後、その人はさまざまな真実を自分の意志で選びとって構わないのだと思います。それは十人十色でよいし、それらは各人らしい生き方で構わないのだと思います。それこそが「自身を島とせよ」と大パーリ・ニッヴァーナ経で述べた釈迦の本意であり、本当の仏教のあり方なのだと私は思います。蛇足ながら、法華経安楽行品では教義の論争を好まない信仰者のあり方が強調されています。



「安楽行品について」



参考文献
奈良康明釈尊との対話』NHKブックス、1988年