気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

自力と他力と。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて私は親鸞の他力の思想をとても大切に考えている者なのですが、だからと言って別段、特に自力の姿勢を否定しているわけではありません。
例えば以前、ブログでも書きましたが、法然は自身が病気になった際にそれを神仏に祈って治すことをしません。ところが、他人から頼まれた時にはきちんと祈祷を行なっていたことがわかっています。
つまり法然親鸞も自力の無意味さを知りつつも、自力を頼む信仰者の態度を否定しているわけでは決してないのです。



「転重軽受について」



末法では釈迦の経典が無効になるとされ、法然親鸞は自力の無意味さを知り、阿弥陀仏への救いを求めたのですが、日蓮法華経はそれに当たらないとし、天台五時八教の教判から法華経こそ末法における有効な教えだと考えた訳です。
私などは天台智顗の五時八教判がそもそも現代の文献学的に見て無効であると考えているので、そこに固執する日蓮教学というものを醒めた目で見ているのですが、まあ、そこに何らかの理由を見出して法華一乗の信仰をする自由も個人にはあるでしょう。



日蓮の信仰が果たして親鸞らの言うような意味での「自力」信仰であったのかと言えば、それは検証の必要もある気がします。ただ大石寺系・創価学会系教義から考えるなら、彼らは大石寺26世日寛の『観心本尊抄文段』の「故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。」(『日寛上人文段集』443ページ)を根拠に「願いの叶う信仰」を掲げているので、自力信仰と言ってよいでしょう。それにそもそも『祈祷抄』には「大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」とありますから、日蓮の信仰そのものに自力の要素があったことは言えるかと私は考えています。



私は自身の信仰の本質がもはや自力にはなく、他力であることを自覚していますが、それだからと言って自力信仰を考える人たちをそれだけで軽視したりはしません。その意味では親鸞法然も同様なのだと考えています。
私が問題だと思うのは、大石寺系信仰のように自分たちの信仰が自力信仰であるにもかかわらず、その考え方を無反省に支持して自分たちのように考えない他力信仰を何の根拠もなく無自覚に侮蔑したり見下したりする姿勢の方です。その意味で大石寺系・創価学会系信仰に一度染まってしまうと、自分の考え方を絶対視し、そのように考えない人たちを受け入れることができず、狭量な世界の中に閉じこもる傾向があると言えるかと思います。



繰り返しになりますが、親鸞や龍樹の念仏思想を重要視する今の私は、確かに信仰における他力の重要性を自覚しています。しかしながらそれは必ずしも自力の信仰を持つ人を侮蔑したり愚弄したりすることとは別なのであって、自分たちで選び取った信仰なのであれば、それは自由であり、尊重されるべきと考えます。
大石寺系信仰の誤りは、自分たちの信仰が自力の範囲に陥っているという自覚も反省もないのに、単純に他力信仰の念仏を安易に非難中傷することです。それでいて自分たちの前提を振り返ることもできず、狭い内側の論理に留まっているのは、かえって自分たちの信仰が低劣で内向きに過ぎないことを無言のうちに証明してしまっているように感じてなりません。