いつもみなさん、ありがとうございます。
そこで「祈る」ことは、願いを叶えたり、夢を実現したり、病気を克服したりするのを目的としています。
ただ「自力」のみに囚われてしまえば、自身で願いが叶った後に、自身の信仰について絶対的な優位性を信じ込んでしまい、正統性に固執してしまうでしょう。
「宗教的論争、正統性論争の愚かしさ」
とするなら、「他力」とは「自力」の限界を知り、そこへ固執する自身の愚かさを認める行為なのだと私は考えています。
自分たちの宗教的確信を「絶対」と捉えてしまうからこそ「祈りとはこのようなものだ」とか「祈りによって願いを叶えよう」等と考え、次第に親鸞や龍樹に耳を傾けられない、あるいは理解しようとしない、そんな考え方に固執してしまうのです。
私はそうなりたくありません。信用性の高い議論であればいつも他者の意見を受け入れ、時には自身の論も訂正して謝罪もし、不断に思想を更新し得る人間でありたいだけなのです。
何かに固執するからこそ、宗教は腐敗するのだと考えています。
逆に自力の考えに拘泥し、自分たちを「選ばれた正統な教団」と自称するような大石寺系教団の信徒たちは、その多くが自分たちの自力の発想ゆえに陥る独善性・独我性に気づくことさえできなくなっているのだと思います。
「自力と他力と」