気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

自力に固執しないこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて私は日蓮の教えから離れて、龍樹や親鸞の考え方から「念仏」を唱えることが多いのですが、「自力」と「他力」について改めて書いてみたいと思います。



創価学会大石寺法華講さんがあげる題目というのは、徹頭徹尾「自力」の考え方に貫かれています。
そこで「祈る」ことは、願いを叶えたり、夢を実現したり、病気を克服したりするのを目的としています。



親鸞法然の教えでは、決して「自力」の祈りそのものを否定はしていません。ここが日蓮系教団で一番勘違いされやすい点かと思います。
別段、親鸞は「祈りで病気を治す」とか「祈って願いを叶える」という姿勢を否定しているわけではないのです。事実、法然は頼まれて人のために病気平癒の祈祷をしたこともあります。



ただ「自力」のみに囚われてしまえば、自身で願いが叶った後に、自身の信仰について絶対的な優位性を信じ込んでしまい、正統性に固執してしまうでしょう。
『スッタニパータ』を繙けばわかるように、本来釈迦の教えは、正統性に固執して議論を戦わせるようなものなのではなく、あらゆる立場に固執しない「中道」の生き方を示すものだったのです。



「宗教的論争、正統性論争の愚かしさ」



とするなら、「他力」とは「自力」の限界を知り、そこへ固執する自身の愚かさを認める行為なのだと私は考えています。
自分たちの宗教的確信を「絶対」と捉えてしまうからこそ「祈りとはこのようなものだ」とか「祈りによって願いを叶えよう」等と考え、次第に親鸞や龍樹に耳を傾けられない、あるいは理解しようとしない、そんな考え方に固執してしまうのです。



私はそうなりたくありません。信用性の高い議論であればいつも他者の意見を受け入れ、時には自身の論も訂正して謝罪もし、不断に思想を更新し得る人間でありたいだけなのです。
何かに固執するからこそ、宗教は腐敗するのだと考えています。
私が阿弥陀仏を求めるのは、自身の立場に固執せず、常に自力思想の陥穽を自ら戒めたいと願っているためです。
逆に自力の考えに拘泥し、自分たちを「選ばれた正統な教団」と自称するような大石寺系教団の信徒たちは、その多くが自分たちの自力の発想ゆえに陥る独善性・独我性に気づくことさえできなくなっているのだと思います。



「自力と他力と」