いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私はこのブログで史料や史実、正文書、信用できる文献等から、自分が今まで信じてきた大石寺系教団の教義にいかに欺瞞があり、虚飾があるのかを明らかにするように心がけています。
そしてその欺瞞を知った上で、私は一人で孤立して、自身で信仰を求めていこうと考えていました。
「自身の過去の告白と総括」
ところで、最近メールや連絡を頂く方の中にはさまざまな姿勢で自身の信仰の総括をしようとされる方々がいらっしゃいます。
また創価学会の現役の地区幹部や支部幹部さんから連絡を頂きましたが、彼らは創価学会を退会せず、内部から組織を変革したいと思ってらっしゃる方々です。例えば池田大作氏の入信逸話の創作や牧口の戦争肯定の事実などを認めつつ、その総括を創価学会がしなければならないと考えておられるようです。
上に書いた以外にもさまざまな立場で信仰を省みようとされている方がいます。例えば大石寺の伝統講の信徒さんもいて新参講の批判をされている方もいますし、大石寺に入り、もう一度学びたいという方もいらっしゃいます。
私は私自身の信仰の総括が正しいなどと考えていません。例えば私は龍樹思想に接近し、本来の龍樹の空思想から曼荼羅の意味を考えていきたいと思っていますが、それは興味がない方にはどうでもよいことです。
私の願いは一人一人の信仰者が自分の頭で考えて答えを出すことです。事実として戒壇本尊が後世の創作に過ぎないとか、大石寺の相伝書が単なる他山文書の寄せ集めに過ぎないことを知りつつ、その上で自身はどうするのかという自省が大切であるということです。
そしてその答えは一つである必要はないと思っています。
それもできずに、大石寺も疑うことが出来ず、池田大作氏の言葉を批判的に検証することもできず、原理主義的に指導者や教義の無謬性に固執するなら、それは単なるドグマに過ぎないということです。事実そんな人ほど、論理的に質問に回答することができず、論理をすり替えて私の人格への非難中傷しかできないのが実態です。
自身の教義や教団指導者の言葉を動かせないものとして批判的検証ができない人たちは単なる原理主義者・無謬主義者であって、私にはどうでもよい人たちです。
そんな教義に固執したければ自由にされればよいと思いますが、私には関係のない方たちです。
教団教義や指導者の無謬性に固執する人たちは、私からすれば執着を残した方であり、本来の釈迦の思想や龍樹の思想とは異なるのだと考えています。