気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

自身の過去の告白と総括。






私はもともとは創価学会の大変な活動家でした。そんなに偉い幹部でもありませんでしたが、まあそこそこの役職まで持ち上げられました。
私の家は貧しかったんです。




父は活動家でしたが、収入が激減し、とても貧しい生活を余儀なくされました。
子どもの頃、母と一緒に柏原ヤス先生の指導を聴いて「貧乏の"ぼう"なんて太い方がいいんです!」なんてわけのわからない指導に(笑)涙流しながら「頑張ろうね」って言い合ってました。今考えると不思議な親子でした。


私は小さい頃から病人でした。
身体も弱くて小学校に入る前から救急車で運ばれることなんて数知れないくらいです。たくさん入院もしました。入院治療とかで母にはお金の面でたくさん苦労かけてしまいました。
母さん、あの時はごめんね。ありがとう。




だから創価学会の活動に頑張っていたんですね。確かに私は当時、学会活動をすると生き生きしていました。
そう思い込んでいただけなんでしょうね。今から考えれば。



私は活動家の頃、行者のような生活でした。正直に言えば出家したかったくらいです(笑)。
たくさんの人に選挙のお願いしたり、家庭訪問したり、布教活動したり、セミナー誘ったり、聖教新聞の営業(学会員は「新聞啓蒙」と言いますが)したり、失礼なこともたくさんしてきました。
私は活動家時代、血気盛んな性格でした。ですから顕正会さんや妙観講さんとの法論が性に合ったのでしょう。たくさんの顕正会さんや妙観講さんと法論をして、相手を仏敵扱いしてコテンパンにしてきました。本当に失礼なことを山ほどしてきました。



財務もたくさんしてきました。父も母もたくさん創価学会にお金を出してきました。私が子どもの頃、すでに我が家には聖教新聞が家に5部ほど入っていました。それに加えて公明新聞創価グラフ(今ならSGIグラフっていうのかな?・笑)やら大白蓮華やらとっていました。財務も毎年必ずやっていました。そうすることが当たり前の生活だったのです。



池田名誉会長からナポレオンの絵をもらったことがあります(正確に言うとジャック・ルイ=ダヴィッドの『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』の絵です。東京富士美術館に一枚あるやつですね)。もちろん複写ですけど、結構大きい立派な複写でした。額縁にいれて飾ってましたね。伝言があって「お母さんを大切に。しっかり勉強してえらくなりなさい」というものでした。
池田名誉会長という人は、こういう弱いものに対する優しさというか、そういう何かがある気がします。
それを人心掌握術だと呼んでも別に構いませんが、少なくとも創価学会の何百万人という人が池田名誉会長の言葉に奮い立ったわけで、私も例外ではなかったのです。



私と私の家族はたくさんの幹部やいろんな人にもお会いする機会がありました。
たとえば石田幸四郎さん、有島重武さん、柏原ヤスさん、秋谷栄之助さん、谷川佳樹さん、弓谷照彦さん、佐藤浩さん、杉野泰彦さん、川村深雪さん、久本雅美さん、竹入義勝さん…………私と私の父は本当にいろんな方とお会いする機会をいただきました。
最近では長井秀和さんでしょうか。いつも長井さんにはこのブログを閲覧頂いていて感謝にたえません。ありがとうございます。



私が創価学会の活動から遠ざかり出した頃、不思議と身体もだいぶ健康になり(笑)、経済的にも安定するようになりました。
山ほどやっていた財務もやめました。
母が心配になって「財務やらなくて大丈夫かなぁ」と私に言うんですね。母もずっと学会の活動家でしたから活動をやめることへと強迫観念のようなものがあったのでしょう。
私は「母さん、大丈夫だよ。財務なんて自由でしょ。別にやらないから罰が出るもんでもないし。大切なのは心なんだからさ」って確かそんなことを言いました。
母は安心して「よかった」って言いました。その年の財務は一口1万円だけにしました。翌年からはやらなくなりました。



母が亡くなってもうこの世にいないことは寂しいですが、少しでも母の助けになったかなあとは思っています。
創価学会には純粋な信仰者がたくさんいます。
当然のことですが、日蓮正宗にも純粋な信仰者はたくさんいます。純粋過ぎるゆえに狂信的になってしまうんですけどね。
自身の信仰の基盤を否定することはつらいことです。今までやってきたことの全否定になるからです。
私もかつては相当悩みました。
けれどそれをすることこそが大切なのだと思います。
創価学会日蓮正宗も純粋な信仰者に本当のことを教えず、ただ組織維持に躍起になっているだけの形骸化した教団に過ぎません。そこには日蓮の思想などかけらもありません。ただ日蓮の思想に似せた虚構があるだけで、本質でも何でもありません。



それらを信じることも信教の自由です。
だけどそうやって日蓮の教えとは似ても似つかないものを信じて、騙された人生を生きるのは自己責任です。
信じているものを全て否定するのはつらいことです。なかなかできません。私は経験したからわかります。
しかしそれをやらなければいけない。真実に目を向けなければいけない。本当のことに目を背けて嘘の世界に生きることが果たして本当の信仰者の道かということです。



以前ここで書いたように池田名誉会長が戸田城聖から折伏されたというのは嘘です。事実は教学部長の小平芳平さんに折伏されました。しかも御本尊を受けることを最後まで拒んで堀米日淳さんが呆れ果てていたというのが実態です。
大阪事件で池田氏が堂々と警察に出頭したという『人間革命』の記述も嘘です。事実は蒲田の自宅で逮捕されています。
牧口初代会長が戦争に反対したなんて嘘です。創価教育学会の実験証明座談会では会の初めに軍歌を歌い、戦勝祈願をしていました。
創価学会の歴史は嘘で固められています。



日蓮は少なくともあらゆる比叡山の権威にも幕府の権威にもよらなかったのだと思います。
孤立しても屹立して信仰をできる人でありたいし、そういう人と私は繋がりたい。
いつまでも組織にへばりついて、御僧侶様から与えられる功徳で満足する乞食のような信仰者に私はなりたくありません。
いつまでも組織にへばりついて、新聞の営業や選挙活動に挺身するような集票マシーンに私はなりたくありません。
私は一個の人間であり、私が信仰をすることに関してどんな教団もどんな宗派もどんな僧侶も担保を与えることはできないし、その必要もありません。


弘安2年の戒壇本尊は日禅授与本尊をもとに作成された後世の偽物です。相伝なんて存在しません。後世の創作に過ぎません。日蓮正宗の歴史もまた嘘で固められています。
創価学会日蓮正宗から離れながら未だに日寛教学に依拠し、教団自身を仏格扱いした自語相違の宗教です。
そんな教団によらなければ信仰ができない人たちは今の私にとってはどうでもよい人たちです。理性的に考えられない人たちです。
いつまでも乞食のように功徳をありがたがって罰を恐れて生きている、そんな信仰者でいることが果たして真の人間として生きることなのでしょうか。私にはとてもそんな風には思えません。
かつての私はそういう人間でした。醜い人間でした。御本尊からもらえる功徳をありがたがって失礼な折伏を展開しては傍迷惑になっていることにも気づかない愚かな活動家だったのです。


もしもそうやって功徳をもらってありがたがって生きていきたいのなら、偽物の板本尊の前に屈して幹部や僧侶の教えに沿って、地面に這いつくばっておすがりをして生きる道を選べばよいでしょう。私にはそんな嘘つきの教団なんてもう必要ありませんし、そんな功徳なんてもらおうと思いません。ありもしない相伝なんて信じません。



今の私には功徳など必要ありません。
寺は必要ありません。
嘘の世界は必要ありません。
功徳も罰も全て幻想です。
偽物の板曼荼羅など必要ありません。
大石寺など要りません。
創価学会など要りません。
すでに形骸化した過去の存在です。
龍樹の空観では一切の常住を否定しました。
どこにいっても真実の偉大な法なんて存在しません。
創価学会にも大石寺にも妙本寺にも要法寺にも久遠寺にも真実はありません。
法華経の中にも真実はありません。
日蓮の教えが正しいなんて幻想です。
それがわからない人に説明する理由はありません。必要ない人たちには伝えませんし、その必要を感じません。
常住の説一切有部とかアビダルマで満足したければそうすればよいのです。
日蓮を絶対と信じたければそうしてみればよいのです。
そんな人は地面を這いつくばって法主からもらえる功徳をありがたがって感謝していればよいのです。
そんなもの、ただの嘘に過ぎません。
今の私には功徳など必要ありません。



日蓮の中に真実はありません。
釈迦の中にも真実はありません。
そういった絶対の正しい法を"在る"と考えたのが説一切有部でした。
龍樹はその全て、その一切を論理的に否定しました。
あらゆる宗派や権威から釈迦の教えを切り離したことが大乗仏教運動の出発点です。
どこかに正しい法があるなんて幻想です。
自らの中に真実が存在しますし、自らの力で信仰の真実を選びとらなければならないのです。
日蓮は少なくともそれをしようとした人です。成功したとは思いませんが、少なくともあらゆる宗派を否定し、比叡山さえ否定し、自らの道を選びました。私はそこに日蓮という人間の屹立した信仰心を見る気がします。
それこそが本当の信仰なのではないでしょうか。
繰り返しますが、日蓮は絶対ではありません。
私も絶対なんかではあり得ません。




私が自分の実践している信仰の実際を今はあまり書きません。なぜなら私がやっていることを真実とか絶対とか思ってもらっても困るからです。
このブログの中の真実は私の中の真実にしか過ぎません。
参考にすることは自由です。読んで頂いていつも感謝しています。
けれど、自らの力で信仰の道を選び取ることをしなければ、いつまで経っても創価学会員は日蓮正宗とか京都要法寺とかあちこちの団体の間を彷徨することになりかねません。
どこに行っても真実はありません。
どこかに真実があるというのは、釈迦の説いた仏教の考えと違います。
どこにも真実など存在しないのです。
そのことがわからない方は龍樹の『中論』をぜひ読んで考えてほしいです。
そのことがわからない方は龍樹に始まる大乗仏教運動の真の意義を理解していないということを意味するのです。
全ては自分の中にしか存在しません。
大般涅槃経における釈迦の最後の指導は「自らを灯明とせよ、怠りなく修行を完成させよ」というものだったはずです。





追記:2017年3月8日
弘安2年の戒壇本尊は後世の創作であり、偽物に過ぎません。その後、「戒壇本尊は御座替本尊の書写であり、御座替本尊の存在が戒壇本尊の証明」ともいうべき愚論がFacebookツイッターで主張される方が法華講の方でありました。簡単に反論しておきました。日興の御座替本尊は弘安2年戒壇本尊の書写でも何でもありませんけどね。

「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」

その方はちゃんと私のブログの記事も読んでないのでしょうけどね(笑)。