気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

天王堂・垂迹堂跡は御影堂周辺に存在した。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて北山本門寺には「本門寺根源」を記した「棟札」が存在し、三堂が一時に造営すべきことが記されています。
これを朽木書として北山には日興が建立したとされる「法華垂迹天照大神宮」が存在します。また大石寺にも同様に神を祀った「天王堂」「垂迹堂」が近年まで存在していたことが堀日亨らの記録からわかっています。



「法華垂迹天照大神宮のこと」

大石寺24世日永の代に天王垂迹堂は再建されていた」



これらを見るとわかるように、元来大石寺の教義には神道や富士山信仰の影響が強くあったということです。
加えて今回指摘したいのは、戸田城聖時代の聖教新聞紙上で、大石寺に「天王堂」「垂迹堂」が存在していたことが書かれていたという記録についてです。

f:id:watabeshinjun:20210828171407j:plain


画像は昭和26年10月10日付の聖教新聞ですが、ここでは大石寺御影堂を紹介する記事で、はっきりと「天王堂」「垂迹堂」が存在していたことが書かれています。
この昭和26年(1951年)の記事では、「遺跡」として扱われていますから、この時、既に廃堂になっていたことがわかります。ただ建物自体はこの時まで現存していたということになります。



記事からわかることは「御影堂の周辺は巨木に取り囲まれており、東側に清流が流れているが、この辺りに現在は遺跡として『天王堂』『垂迹堂』が存在していた」ことです。



現在、私は大石寺に参詣することがないのですが、もしも読者の中で上条大石寺に行かれる方がありましたら、ぜひ御影堂の東側、水の流れるあたりに「天王堂」「垂迹堂」跡が存在していたことを見てみるとよいのかもしれません。