気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

誤りを認められない人たち。




いつもみなさん、ありがとうございます。



私はかつて創価学会の活動家でした。宗創和合時代も経験しましたので、日蓮正宗の寺で唱題をしたこともあります。正本堂建立の昭和47年前後はまだ全国の会館も整備されておらず、日蓮正宗の寺で会合を持つことも創価学会としては普通のことでした。私はそのこともよく覚えています。



今となっては、こんなブログを書き始めて創価学会日蓮正宗大石寺の教義を検証し、さらには日蓮その人の教義の前提も見直しました。
私は自身の誤りに気づき、日蓮の思想からも離れました。今では日蓮の思想が「自力」に過ぎず、「他力」に依拠する親鸞、また『十住毘婆沙論』の龍樹の思想に共感し、念仏を唱えることが多くなりました。



私は大乗非仏説の議論も肯定していますから、そもそも漢訳仏典そのものが釈迦の直説ではないと考えています。ただ北伝仏教の運動そのものにそれなりの意義があったろうと考え、その意義を龍樹に見出しています。
ただそうは言っても、漢訳仏典そのものが釈迦の直説と言い切れないので、その点について批判を受けるならば、釈迦の本義という観点から批判を大いに受け容れて構わないのではないかと考えます。むしろ自身の考える釈迦思想が偏見に囚われる可能性もありますから、大いに批判叱正を受容し、自分の思想を更新することを辞さない態度で今はブログも書くようにしています。



ところで、創価学会日蓮正宗、また顕正会等は、自分たちの教義的前提が「誤り」と気づいても、「私たちは間違えました」と言わないのでしょうか。



私個人は自身が教団の教義を無反省に受け入れ、他宗派を無節操に非難中傷してきた事実は素直に謝罪すべきだと考えています。それはもちろん身延山日蓮宗にもまた他山の宗派にも謝るべきだと考えています。それが信仰者として誠実な態度だと信じる故です。



翻って創価学会日蓮正宗大石寺はどうなっているのでしょう。
自分たちの誤りを決して認めない。謝罪もしない。総括も反省もしない。挙げ句の果ては「今となって何がいけないのか」と開き直るような態度です。過去をきちんと見ようとしないのです。
私の過去を反省して生きる態度と、創価学会日蓮正宗の姿勢とは根本的に異なります。
私はそんな過去を反省しようとしない教団に心の底から辟易しています。



百歩譲って「悪気はなかった」のかもしれません。しかし悪気がなかったとしても間違っていたのなら「私たちは間違えました。ごめんなさい」と言うべきです。「ごめんなさい」を言えない人たちを私は心の底から軽蔑します。




それが言えない人こそ、まさに創価学会の幹部であり、そして池田大作その人です。そして日蓮正宗法主たちも自分たちの教えを正統化するだけの、余りに反省できない人たちを大量生産しています。
自身の誤りを認められない人たち、「ごめんなさい」を言えない人たちを見る度に、私はつくづくこんな教団を離れてよかったと思っています。