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これは、生まれる前の宿業が強く未来に苦しみを受けなければならないが、過去の業を軽く受けることができるという、涅槃経由来の教義になります。
「涅槃経に転重軽受と申す法門あり、先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候」
(創価学会版御書全集1000ページ)
ところで、この教義なのですが、日蓮以前に主張されていた人がいます。それは浄土宗の法然です。法然の書簡に「鎌倉二位の禅尼へ進ぜられし書」というものがあり、そこから引用してみます。この「鎌倉二位の禅尼」とは北条政子のことです。
「宿業限り有て受くべからん病は、いかなるもろもろの仏神に祈るとも、其れに依るまじき事也。祈るに依て病も止み、命も延ることあらば、誰かは一人としてやみしぬる人あらん。況や又仏の御力は、念仏を信ずるものをば、転重軽受と云ひて、宿業限り有りて、重く受くべき病を、軽く受けさせ給ふ。況や非業を払ひ給はん事ましまさざらんや。されば念仏を信じる人は、縦ひ何なら病を受くれども、皆是宿業也。」
(浄土宗略抄「鎌倉二位の禅尼へ進ぜられし書」より)
上述の法然の書簡によれば、法然は前世の宿業による病を患った場合には、それを仏や神に祈って治すのは無意味であると考えています。仏は念仏を信じる者の病を軽くする力を持っており、宿業以外の病気にはかからないようになるのだそうです。
法然は自身が病を患った時には医師の診察を受け、灸や湿布をし、唐から調達した薬を飲んでいたと記録にあります。法然は自身の病の治病のために祈祷を行ったことはないのです。ただ他者から頼まれた時に祈祷を行っていたことはわかっています。
頭から湯気が出るほど題目を唱え、一心不乱に何時間も唱題し続ける感覚は、まさに祈祷であり、浄土真宗からみれば単なる「自力」に固執している姿に見えてきます。まあ退会して過去の自分の姿を客観的に見られるようになったがためにそのように自分も初めて言えるわけなのですが……。
法然や親鸞の考える教えは、徹底した「他力」であり、「自力」の無意味さを知り、剥き出しの凡夫に過ぎない自身の愚かしさに気づくことにあります。だからこそ「転重軽受」も前世の宿業を受け止めることに本意があるのであって、無理矢理に呪術で治すようなことを意図したものではありません。
参考文献