気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

随自意とは。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて創価学会大石寺系信徒は法華経が「随自意」の教え、他は「随他意」の教えなどと言ったりします。
「随自意」とは「仏が教えを説く時、仏自身の意に随うこと」であり、「随他意」は「相手のことを考えて、その意に随うこと」であるとされています。


日蓮は『観心本尊抄』では、法華経の迹門(前半14品)と前四昧・無量義経・涅槃経等は悉く「随他意」であり、法華経本門(後半14品)こそ「随自意」であり、難信難解の教えであると述べています(創価学会版御書全集249ページ)。


ところで、この随自意という考え方は、宗派によって捉え方が違います。
まず「随自意」という言葉は法華経に書かれた言葉ではありません。もともとは涅槃経に書かれた言葉です。
浄土宗の法然は『選択集』において「随他の前には暫く定散の門を閉づ。一たび開いて以後永く閉じざるはただこれ念仏の一門なり」(浄土宗聖典3-175)と述べていまして、法然自身は「念仏」を「随自意」としているのです。


また浄土宗3祖の良忠の『決疑抄』によれば「随自随他の言は涅槃経により出づ。謂く、三乗の法を随他意語と名づけ、一乗の法を随自意語と名づく。天台は彼の経に依りて、またその名を用う」(浄土宗全書7-330)と述べていまして、天台宗が涅槃経によってこの語を使うようになったことを認めています。


宗派によって「随自意」の概念も異なるわけで、それを「法華経本門」なのだとする日蓮の考えも、それを「念仏」なのだとする法然の考えも、どれも一つの意見に過ぎず、根拠はないということになります。


法華経を「随自意」とする考えは、一つの教派の一つの意見に過ぎませんから、それを絶対化するのは誤りなのですが、なぜかネット上の大石寺系信徒は自分たちの信じている教義をなぜか動かせないもののように捉えて原理主義的に他の意見を否定したりします。