いつもみなさん、ありがとうございます。
以前、源信の『往生要集』について、記事を書いたことがあります。
「念仏思想について」
したがって源信にあっては、臨終時の念仏が大切なのであり、ここから「臨終行儀」ということが時代の流行になっていきます。亡くなるその瞬間に心を乱しては阿弥陀仏の来迎がないかもしれない、だからこそ痛みや苦しみを克服し、安らかな心で服装を整えて念仏を唱えて臨終を迎えることが平安時代には流行していきます。源信は臨終行儀に当たって身を清める際に鼻毛まで抜いたと言われています。
天台宗の教義では釈迦の入滅後2000年後に「末法」が始まるとされています。多くの創価学会や大石寺系信徒の方も「末法」の概念は、ご存知かと思いますが、末法は釈迦の教えが力を失うとされた時代です。そして終末思想、末法思想が流行した平安時代の貴族社会には、源信の『往生要集』が大きな影響を与えていきます。
10円玉の絵で有名な平等院鳳凰堂は藤原道長の息子・頼通が建てたものです。また阿弥陀仏の来迎を演じる迎講は観衆に浄土への憧れと共に、極楽往生の様子を脳裏に焼き付けて観想念仏の助けとすることを本来目的としたものです。
彼らの根底にあるのは、末法という時代に釈迦の教えが効力を失い、そもそも「難行道」である法華経等の教えは力を持たないし、それらを修行することもできない、だからこそ念仏によって極楽往生を遂げようというものです。背景にあるのは政情の不安等、終末思想、明日の命さえもわからない不安というものです。
日蓮は、承久の乱において後鳥羽上皇方が負けたことを「亡国の証」と捉え、法華経を中心にした比叡山の再興を謳い、効力を失ったとされる法華経をもう一度中心にした祭政一致国家を夢見るようになります。そもそも日蓮のアプローチはベクトルが全く異なっており、日蓮は救いというより、国家の奉ずる宗教の問題に入って立正安国の世界を求めていくのです。
「承久の乱について」
法然も日蓮も、どちらも「末法」という政情不安な時代に生きたパラダイムを共有していたのであって、その中でどのように生きるのかを模索した人であったということです。同時に法然も親鸞も日蓮も当時の「末法」という歴史のパラダイムからは離れることはできませんから、それについて現代に生きる私たちは、何が今の自分達に必要なことなのかを自分で考えて一定の答えを出す必要に迫られているのだと私は考えています。
そのような検証の試みを根本から否定し、完成された教義を装って偽り、借り物の教義を信じるだけの人たち、とりわけそのような創価学会や大石寺系の信徒たちは、真の信仰者とは到底言えないと今の私は考えています。