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さて前回の記事で、大石寺18世日精と当時の大石寺の支援者・敬台院との間で確執があったことを確認しましたが、さて日精が唱えて弟子に伝わり、そのまま先鋭化した「三鳥派」とはどのような教義だったのでしょうか。
前回の記事(2024.11.30)で引用した沼津市明治史料館編『愛鷹山中の謎の遺跡 山居院 -史実が伝説になるとき-』(沼津市明治史料館、2000年)にもあるのですが、この中で引用された『月堂見聞集』には「三鳥派といふ心は、日蓮より第三番目の上人は祖師より超たりとて、三番目の上人を用いるに依って、三鳥派と云へり」(同23ページ)とあるように、日蓮・日興と並び大石寺3祖の日目を尊崇するという教義です。
しかも客殿に安置される本尊は日興から日目に譲られたとされる「御座替本尊」(譲座本尊)の板模刻ですが、これを模刻・安置したのは24世日永です。日永は実は18世日精の弟子で、江戸の下谷常在寺を日精から直接に譲られているのです。そしてこの24世日永の弟子こそが、日精を深く尊崇していた26世日寛なのです。
「日精を尊崇していた日寛」
日精は『随宜論』を著し、大石寺に要法寺流の「造仏」教義を容認した法主とされます。が、私の見解では造仏を奨励したのはむしろ大石寺の支援者であった敬台院の方で、日精は敬台院との関係から彼女の造仏教義を一部容認はしますが、その後は造仏を大石寺境内で繰り返した形跡が見られないのです。
「仏像建立は敬台院の意向」
日精と三鳥派、またその影響を受けた日精の後継たちは、敬台院と関係断絶の後、大石寺3祖を祭り上げる「三鳥=三超」義や法主絶対性の教義を主張し、敬台院の「自身の菩提寺たる大石寺を京都要法寺風に仕立てたい」とする意向を少しずつ寺内から排除していったのです。事実、先述したように客殿に「日興→日目」の証たる御座替本尊を模刻・安置したのは24世日永です。また大石寺に日蓮・日興・日目の「三師塔」を建立したのは22世日俊です。北山本門寺文書によれば日俊は日精が造立した「仏像」を「去却」することさえしています(北山本門寺文書『本宗史綱下』671ページ)。
当時の時代状況をここで少し確認しておきましょう。江戸幕府は慶長17年(1612年)、キリシタンの禁制を発布します。その後、元和元年(1615年)、諸宗本山末寺への法度を制定。寛永7年(1630年)4月2日に江戸幕府は日蓮宗不受不施派を「邪教」と認定します。寛永12年(1635年)に寺社奉行が設置され、その2年後の寛永14年にあの「島原の乱」が起こり、翌年には鎮圧されています。
三鳥派日秀の系譜は幕府によって日蓮宗不受不施派と混同され、弾圧の対象になっていくのです。
日精はその弾圧を避けるため、「金口一人」の相承が法主一人なものであることを強調し、三鳥派弾圧から自山を守る意図があったのだと考えることもできるでしょう。
三鳥派は江戸幕府の弾圧によって潰え去りますが、日精らが唱えた「三超」「大石寺3祖を礼賛する」教義は少しずつ形を変えながら、後世の大石寺の教義形勢に影響を与えていきます。事実、客殿における丑寅勤行で法主の座る横向きの席は「目師席」つまり日目の座る場所であり、いつの間にか大石寺には「広宣流布の暁の時の法主は日目の再誕」だとする伝説さえ生まれるに至ります。
「日目再誕説」