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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

仏像建立は敬台院の意向。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今回は昨日の続きとなります。大石寺の実質的な18世である日精と敬台院との関係、造仏の事実についてです。
以前の記事を少し読まれるとよいかもしれません。



「敬台院と日精のこと。」




敬台院と日精は後に関係が悪化し、袂を分かつことになるのですが、当初の関係は良好でした。
まず元和9年(1623年)に敬台院は法詔寺を建立します。その翌年、法詔寺には仏像が建立されます。このことに関して敬台院が日精を批判した事実は史料には見られません。
17世の日盈の後、寛永14年(1637年)春に日精は江戸から大石寺に帰りますが、この際、日精は敬台院からの推挙を受け、公儀の乗輿を許可されています。



寛永10年(1633年)、日精は『随宜論』という著作を著しています。これは仏像の造立を認めている、大石寺法主としては異例の著作になります。堀日亨の『富士宗学要集』にも全編は収録されていません。この著作が書かれた経緯と末文が引用されていますので、載せてみましょう。



「右の一巻は予法詔寺建立の翌年仏像を建立す、茲に因つて門徒の真俗疑難を致す故に朦霧を散ぜんが為に廃忘を助けんが為に筆を染むる者なり。
寛永戌年霜月吉旦    日精在り判」
(富士宗学要集9-69ページ)



ここからわかることは、法詔寺の仏像建立は敬台院の意向であったということです。
もしも仏像建立が日精の意志で行われたことであるのなら、寛永14年前後まで両者の関係が良好であったことの説明がつきません。
上記の引用でわかるように、大石寺信徒の間で、当時から法詔寺の仏像建立に関して疑問の声があがったことはわかります。それに対し、日精が敬台院を擁護するような形で『随宜論』を著わし、仏像建立を認めているのです。
事実として、この仏像建立の流れは大石寺時代には起こらなかったようで、そのことを59世の堀日亨も次のように書いています。



「要山より晋める山主は日昌日就盈の時は著しく京風を発揮せざりしが、但し其人柄に依らんも日精に至りては江戸に地盤を居へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたりし但し本山には其弊を及ぼさざりしは衷心の真情か周囲の制裁か、」
(富士宗学要集9-69ページ)



ここからもわかるように、造仏読誦の教義は元京都要法寺信徒であった敬台院の意向によって行われ、日精はそれを追認する形で認めていったということになります。



それでは後になぜ敬台院と日精の間で関係が悪化し、日精が大石寺を追われるまでに至るのかについては、また別稿を考えたいと思います。