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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

正本堂の意義の変遷と顕正会の供養参加。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今回は正本堂の意義づけと顕正会(旧妙信講)の供養参加についてです。


この問題については、先に以下の記事を読んで頂いた方がよいかと思います。


正本堂の意義づけ」


要するに昭和39年5月3日の時点で創価学会側と池田大作氏は「本門戒壇堂は正本堂とは別に建てられる」と考えていたのに対して、大石寺側がその9ヶ月後、細井日達氏の説法により「戒壇の御本尊は特別な戒壇堂ではなく、本堂に安置すべき」として、事実上、将来において正本堂が本門戒壇堂の役割を果たすという指摘をしたわけです。


ところで、この正本堂の供養には、なんと顕正会(当時は妙信講と言いました)も実は参加しています。事実として彼らは講で800万円の供養をし、細井日達氏より数珠を頂いています。


この事実を顕正会側は非常に巧妙にごまかすんですね。つまり彼らとしては国立戒壇絶対の立場なわけで、それ故に大石寺創価学会を批判して自分たちの正統性を主張したいという思惑があるのかと思います。


例えば妙信講の当時の機関誌『富士』において、浅井甚兵衛氏の発言を紹介し、「今回、総本山において御法主上人猊下の御思召により、正本堂が建立されることになりました。妙信講も宗門の一翼として、講中の全力を挙げ、真心を込めて猊下に御供養をさせて頂く事になりました」と述べています(『富士』昭和40年7月号、浅井甚兵衛講演、総幹部会にて、昭和40年5月25日)。


この正本堂建立供養への参加発言は、よほど顕正会に都合が悪いと見え、この昭和40年5月25日の発言について顕正会側は機関誌において「当時はまだ誑惑が顕著ではなかった」「管長猊下は一言も正本堂を御遺命の『事の戒壇』などとは云はれず」と言い訳をしています(『富士』昭和61年8月号)。


ところが、この顕正会側の発言はよく読むと時系列がおかしいことがわかります。
時系列に書き出してみましょう。


①昭和39年5月3日
池田大作氏が正本堂建立寄進の発議をし、この中で「正本堂の後、あとは本門戒壇堂の完成を待つばかりである」という趣旨の発言をする。

②昭和40年2月16日
細井日達氏が「戒壇本尊は特別な戒壇堂ではなく正本堂に安置されるべき」「大御本尊のある堂がそのまま戒壇である」という趣旨の発言をする。

③昭和40年5月25日
妙信講(現顕正会)、浅井甚兵衛氏は正本堂建立供養に参加する旨を宣言する。



顕正会側が「誑惑が顕著になった」とした発言の景気は「時は昭和40年2月16日、正本堂建設委員会において同上人は、正本堂が御遺命の戒壇に当る旨の説法をされた」(『富士』昭和52年8月号)とあるように、昭和40年2月16日の細井日達氏の説法です。ところが、その説法が行われた3ヶ月後に明確に妙信講は供養参加を呼びかけており「誑惑が顕著でなかった」とする発言はなんら整合性がありません。


ここから論点を整理すると以下のようになるかと思います。


1、昭和39年5月3日の段階で、正本堂建立寄進を発議した創価学会および池田大作会長は正本堂を当時、本門戒壇堂と別のものと考えており、「本門戒壇堂」は当時の教義では「国立戒壇」であったことから、正本堂建立供養を「最後の供養」としていた。


2、ところがその9ヶ月後、昭和40年2月16日、第1回正本堂建設委員会(於大講堂)の席上で、大石寺66世細井日達氏は二箇相承の「本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」の意義について、本門寺の中に特別な戒壇堂を設けるのではなく、本堂に安置されるべきである」という趣旨の発言をし、事実上、"広宣流布"の時に戒壇本尊安置の正本堂が本門戒壇になることを認める。


3、妙信講(現顕正会)はこの昭和40年2月16日の細井日達氏の発言を受けて、昭和40年5月25日に正本堂建立供養参加を呼びかけ、講中として800万円の供養を行った。このことから浅井氏は日達氏より数珠を賜っている。