気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

金剛宝器戒と『教行証御書』について。

 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて今回は日蓮正宗法華講信徒がよく使う「金剛宝器戒」という言葉が引用される『教行証御書』の偽書説について、書いてみたいと思います。
 
 
大石寺法華講信徒さんは「妙法の戒体を受けたならば何者にも破壊されない、崩れない戒体を持つこととなる」と言い、これを「金剛宝器戒」と呼ぶのです。
これは日蓮正宗でよく言われる教義でして、確かに戸田城聖時代の創価学会でも言っていたことがあります。
この「金剛宝器戒」という言葉は『教行証御書』という遺文に出てきます。画像は旧版・創価学会版御書全集の1282ページです。

 
ところが、よく調べてみると、この「金剛宝器戒」という言葉、どうも日蓮の用語ではない可能性が高いのです。
まず「金剛宝器戒」という用例が出てくる日蓮の遺文は『教行証御書』一編のみです。私は他の日蓮の御書に「金剛宝器戒」という言葉が使われた例を他に知りません。
そして『教行証御書』は真蹟不存、時代古写本も不存であり、録外初出、すなわち室町時代以降に出てきた遺文に過ぎません。すなわち偽書の可能性の高い遺文なのです。
 
この『教行証御書』は年次に異説があり、文永12年説、建治3年説、弘安元年説があります。多くは文永12年説を採りますが、龍象房の問題が惹起し、対論の必要性が台頭してきたことが伺えます。この事件が『諸人御返事』(同御書1284ページ、真蹟は平賀本土寺現存)に含まれている事件と同一と考えると、この『教行証御書』執筆は弘安元年春頃と推定されます。
この時に対論に当たろうとしたのが鎌倉の三位房でした。
三位房は日蓮に指示を請い、それに対して対論の際の言語や態度に関しても周到に注意を与えたのが、この『教行証御書』だとされます。
ところで、この『教行証御書』の中で、日蓮が執権・北条時宗を「法光寺殿」と呼んでいる部分があります(同御書1281ページ)。

 
北条時宗が出家したのは晩年の弘安7年(1284年)4月4日のことです。『教行証御書』が弘安元年(1278年)成立とすれば、なぜ日蓮がまだ出家していない北条時宗法名で「法光寺殿」と呼ばねばならないのでしょう。そもそも北条時宗を「法光寺殿」とするのは、北条時宗の死後の呼び名です。
ここから考えて『教行証御書』は後世の偽書の可能性が非常に高いことがわかります。
 
「金剛宝器戒」という言葉は『教行証御書』という偽書の可能性が高い遺文にしか書かれていません。しかも他の日蓮遺文には載らない用例です。
したがいまして、「金剛宝器戒」は日蓮の教義ではないと思います。
 
 
追記
最澄は『一心金剛戒体秘決』という著作で「金剛宝戒」という言葉を使っています。この「金剛宝戒」を最初に論じた人は、中国唐代の法相宗3祖・智周という人でして、智周は『梵網経』巻下の「金剛宝戒は是れ一切仏の本源、一切菩薩の本源、仏性の趣旨なり」という部分から「金剛宝戒」という言葉を用いたようです。
とすれば、「金剛宝器戒」の淵源はそもそも『法華経』ではなく『梵網経』であり、「金剛宝戒」は本来法相宗の教義であったものを最澄が自宗に取り込んだものということになります。
 
 
 
参考文献
小島通正/小寺文穎/武覚超「天台口伝法門の共同研究」、『印度学仏教学研究』第24巻1号所収、1975年。