いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私はブログで度々、弘安2年造立説の
戒壇本尊は後世の偽作に過ぎないことを何度か述べています。
ところで、安永弁哲という人が書いた『板本尊偽作論』という、昭和31年刊行の書籍があります。今読むと非常に古く、
創価学会や
大石寺への批判も、どちらかというと現証面での批判に寄りかかり過ぎて、参考にならないところも多いです。
ところが、一箇所、気になったところがあります。
戒壇本尊の
日蓮花押の下部にはかなりのスペースが空いていて、ここには願主弥四郎国重の文が書いてあります。
具体的には「右為現当二世造立件如」「本門
戒壇願主弥四郎国重」「
法華講衆等敬白」と書かれていることはよく知られています。
安永弁哲氏が引用した、
北山本門寺文書集に所収の『久遠日記』の記述によるなら、実は
戒壇本尊のこの部分には金箔がされていないというのです。
戒壇本尊の画像は、既にネット等で流出して出回っていますが、確かに下部には金箔がされていないように見えます。
戒壇本尊の文字は原則「掘り下げ」彫刻でして、掘られた文字に金箔を流し込んであるのですが、この文字には金箔がなされていないのです。
つまりこれは、願主である弥四郎国重、
法華講衆等が
日蓮に対して書いたものであるという仮設に立つと、よくわかるのです。
そもそも
日蓮自身が造立したのだとすれば、
法華講衆に対し「敬白」と敬語で書くのは不自然です。また金箔がなされていないのも不自然です。
しかしこれが、後世の創作であって、第
三者が
日蓮に対して「敬白」と書くならば、敬語で書かれていることも筋が通りますし、また金箔がなされていないことも筋が通ります。
ところが、後世になって、敬白の文字も本門
戒壇願主弥四郎国重の文字も
日蓮の文字だと強引に主張しなければならなくなってしまったところに、
大石寺教学の杜撰さがよく現れているような気がします。