気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

「三度諌めても聞き入れられないならば山林に去る」というのは仏教ではなく儒教の発想である。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて日蓮の思想には仏教以外の儒教の影響があることはこのブログで何度となく、取り上げていることです。
 
「『立正安国論』の儒教的な発想」
 
儒教における孝養」
 
「『貞観政要』のこと」
 
日蓮の行動原理としての儒教の『孝経』」
 
今回は、日蓮が行動原理とした「三度まで国を諌めて、聞き入れられなければ去るべし」とした、その根拠が儒教由来であることを考えてみたいと思います。
まず関連する日蓮の発言を見てみたいと思います。
 
まず『報恩抄』(真蹟断簡は池上他に現存、身延曽存)です。ここでは「又賢人の習い三度国をいさむるに用いずば山林にまじわれと・いうことは定まる例なり」創価学会旧版御書全集323ページ)とあります。

 
次に『下山御消息』(真蹟は京都本圀寺他各所に散在)です。ここでは「国恩を報ぜんがために三度までは諫暁すべし用いずば山林に身を隠さんとおもひしなり、又上古の本文にも三度のいさめ用いずば去れといふ本文にまかせて且く山中に罷り入りぬ」(同358ページ)とあります。

 
また『聖愚問答抄』(真蹟不存)には「主君を三度・諌むるに用ゐずば山林に交れとこそ教へたれ」(同493ページ)と、夏の桀王の故事を出してやはり同趣旨の内容が述べられています。

 
この「三度主君を諌めて、聞き入れられない時は去るべき」とする行動原理は、実は仏教由来ではありません。これは儒教の考え方であり、孔子の『礼記』に出てくる言葉なのです。
 
事実、孔子礼記』の「曲礼下篇」にはきちんと「三たび諌めて聴かざれば、則ち之を逃(さ)る」と書かれています(塚本哲三編『礼記』41ページ、有朋堂書店、大正14年)。

つまり日蓮孔子の『礼記』を学び、その儒教的発想から『立正安国論』を「勘文」として幕府に提出、国家諫暁を行い、その諌めが三度にわたっても用いられない時は「山林にこもって去る」という儒教の行動原理に従ったことになります。事実、法華経の安楽行品では仏教者は国王や大臣等の為政者に交わることが禁じられています。国家君主と政治的に関係を持つことは本来法華経や仏教の発想とは異なるのであり、仏教の考えではないのです。