気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日蓮の庵室について。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は日蓮が文永11年6月17日以降に暮らしていた「庵室」の状態、そしてそこに弘安2年以降、戒壇本尊を果たして置くことができたのかを考えてみたいと思います。
 
 
日蓮が住んでいた「庵室」について伝える文献は『庵室修復書』(建治3年、身延曽存)です。
ここで全文を見てみましょう。

「去(いぬる)文永十一年六月十七日に・この山のなかに・き(木)をうちきりて・かりそめにあじち(庵室)をつくりて候いしが・やうやく四年がほど・はしら(柱)くち(朽ち)かき(牆)かべ(壁)をち候へども・なおす(直す)事なくて・よる(夜)ひ(火)を・とぼさねども月のひかり(光)にて聖教をよみまいらせ・われ(我)と御経をまき(巻き)まいらせ候はねども・風をのづから・ふきかへし(吹き返し)・まいらせ候いしが、今年は十二のはしら(柱)四方にかふべ(頭)をなげ(投げ)・四方のかべは・一そ(所)にたうれぬ(倒れぬ)、うだい(有待)たもち(保ち)がたければ(難ければ)・月はすめ(住め)雨はとどまれ(止まれ)と・はげみ候いつるほどに・人ぶなくして・がくしやうども(学生共)をせめ・食なくして・ゆき(雪)をもちて命をたすけて候ところに・さきに・うへのどの(上野殿)よりいも(芋)二駄これ一駄はたま(玉)にもすぎ(後欠)」
日蓮『庵室修復書』創価学会旧版御書全集1542ページ)
 
読んでおわかりのように、部屋の状態は三間四面の庵室で文永11年に作られて4年ほどが経ち、建治3年の頃には「柱が朽ち」「垣壁は落ち」「直すこともなくて」「夜は火を灯さなくても月の光で経典を読む」状態です。日蓮の庵室がいかに粗末な建物であったかがわかるかと思います。
そしてここで指摘されている建治3年の修復作業も「人夫なくして」「学生どもをせめ」とあるように人手がないところで行った簡単な修復程度に過ぎなかったことが推察できるでしょう。
 
それでは戒壇本尊が仮に弘安2年に建立された以降の日蓮の庵室はどうだったのでしょうか。『四条金吾許御文』(弘安3年説、真蹟不存、録内)を見ると「処は山の中・風はげしく庵室はかご(籠)の目の如し」(同1195ページ)とまで書かれています。

 
「庵室は籠の目の如し」とは壁が隙間だらけということになります。この『四条金吾許御文』が日蓮の弘安3年の状況を正しく伝えていると仮定するなら、弘安3年当時も庵室は隙間だらけの安普請の庵室だったことになります。
 
ところで大石寺の奉安堂に伝わる戒壇本尊は、楠木の半丸太作り、縦143cm、横幅65cm、重さが少なく見積もっても120〜200kg弱になる大きさのものです。
 
戒壇本尊の重さ」
 
こんな重さのものが、弘安2年以降に隙間だらけの庵室に置かれていたということがあり得るのでしょうか。床が果たして保つのでしょうか。
加えて文字を刻み込み、漆を塗り、金箔を流し込んだ作りの戒壇本尊が「籠の目の如し」の壁で隙間だらけの庵室に保管されることが果たしてあり得るのでしょうか。
そしてそれがもし安置されていたとしたら、六老僧らや当時の弟子たちの記録に戒壇本尊に関する記述が何一つ残されていないということがあり得るのでしょうか。
 
ここから考えても戒壇本尊は、単なる後世の偽作でしかないことは明らかかと思います。