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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

『三大秘法抄』は日蓮の著作ではない。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は『三大秘法禀承事』(『三大秘法抄』)が偽書である点についてです。
同抄『三大秘法抄』は顕正会が依拠とする日蓮遺文として有名です。
内容として三大秘法のうち、本門の戒壇建立の条件が具体的に説かれ、また日蓮が釈迦からの「口決相承」を強調するという、日蓮真蹟にほとんど見られない珍しい内容となっています。
 
『三大秘法抄』に真蹟は現存せず、中山の久遠成院日親の嘉吉2年8月の写本が京都本法寺に存在します。また身延山久遠寺の日進の写本も存在するようです。しかしながらこの御書は日蓮門流中、真偽論争が散々に行われてきた御書の一つです。
 
個人的にこの『三大秘法抄』は不審な点が少なからずあることから、日蓮真蹟として扱うというより、戒壇論に関して門下たちが述べたことがそのまま日蓮の著作のように扱われ、大きな論争になっているような印象を受けます。
以下にいくつか、この『三大秘法抄』の真蹟説に疑惑を抱かしめる点について、挙げてみたいと思います。
 
 
1、太田乗明の宛名の問題。
 
この『三大秘法抄』は太田乗明氏に宛てて書かれたとされます。ところが、弘安5年説でありながら、宛名が「太田金吾殿」とされているのです。
太田乗明は建治元年に諱をそのまま法号として出家します。中山に本妙寺を建てた後、彼は入道として知られるようになります。
事実、真蹟現存で確実な遺文中では、太田乗明への宛名は建治元年以降は全て「入道殿」「乗明聖人」等の法号日蓮は呼びかけており、俗名の「太田金吾」を使うことはないのです。
以下に列挙してみましょう。
 
『太田入道殿御返事』(建治元年11月、真蹟は大分法心寺他に現存)→「太田入道」
 
『乗明聖人御返事』(建治3年4月、真蹟は中山に現存)→「乗明聖人」
 
『慈覚大師事』(弘安3年1月、真蹟は中山現存)→末尾に「太田入道殿」
 
それにもかかわらず、太田入道を弘安5年説の『三大秘法抄』では「太田金吾殿」と書いてあるのは非常に不自然な印象を受けます。

 
2、日蓮真蹟に書かれない語が出てくる
 
以下の語は日蓮真蹟に1箇所も存在しない用例です。これらが『三大秘法抄』には出てきます。語の次にはその後が用いられる偽書の可能性が高い遺文名を挙げてみましょう。挙げてある遺文は全て真蹟不存です。
 
「無作三身
(『三大秘法抄』『諸宗問答抄』『三種教相』『今此三界合文』『義浄房御書』『当体義抄』『授職灌頂口伝抄』『教行証御書』『三世諸仏総勘文教相廃立』『十八円満抄』『妙一尼御返事』『御義口伝』『御講聞書』)
 
「口決相承」
(『三大秘法抄』『御義口伝』)
 
「三大秘法」
(『義浄房御書』『三大秘法抄』『御義口伝』)
 
三身即一身」
(『一念三千法門』『三大秘法抄』『御義口伝』)
 
また昭和の年代に「コンピューター解析」を行い、『三大秘法抄』真蹟説が裏付けられたとする見解が流行ったことがありました。ところが、この解析なるもの、確実な日蓮真蹟についてどの程度実験を行い、どの程度なら正確なデータが示されたのか、全くわかりません。また上述の語は、日蓮真蹟には1箇所も用いられない語であり、これらの語が多用される時点で、やはり『三大秘法稟承事』の信用性は低いと言わざるを得ないと私は思います。
 
 
3、日蓮の国家諫暁後の隠遁との矛盾
 
日蓮の鎌倉を中心とする宗教活動の中心は、国家諫暁でした。それは国主を教化して妙法に帰依せしめ、その力をもって祭政一致国家の樹立によって立正安国の国土を現出せしめるというものです。だからこそ日蓮は「勘文」として『立正安国論』を幕府に提出するのです。
 
「「勘文」について」
 
文永9年9月の『四条金吾殿御返事』(日興写本が北山本門寺に現存)では「善悪に付て国は必ず王に随うものなるべし。世間此くの如し仏法も又然なり、仏陀すでに仏法を王法に付し給うしかればたとひ聖人・賢人なる智者なれども王にしたがはざれば仏法流布せず」(創価学会旧版御書全集1119ページ)と述べられ、国主・王に従わなければ仏教は流布し得ないのだという日蓮の考えが示されます。だからこそ日蓮の宗教活動の方法論こそ「国家諫暁」だったのです。
ところが建治3年6月の『下山御消息』(真蹟は京都本圀寺他各所に散在)では「国恩を報ぜんがために三度までは諫暁すべし用いずば山林に身を隠さんとおもひしなり、又上古の本文にも三度のいさめ用いずば去れといふ本文にまかせて且く山中に罷り入りぬ」(同358ページ)とあり、その通りに三度の諌めが受け入れられなかったので、日蓮身延山に隠遁してしまうのです。
 
日蓮佐渡流罪から赦免されたのが文永11年2月です。3月26日に鎌倉に帰った日蓮は、その後、4月8日に平頼綱と会見し、日蓮は「建長寺寿福寺極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頸をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」(『撰時抄』同287ページ)とまで進言します。それでも日蓮は幕府に用いられることはなかったので、失意のうちに日蓮身延山に隠遁することになるのです。
 
そのような状態にあった日蓮が果たして『三大秘法抄』にあるように「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法とは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して踏給うべき戒壇なり」(同1021ページ)などと身延山で構想することがあり得るでしょうか。ここから考えても『三大秘法抄』は日蓮の著作とは考えられません。
 
 
ただ個人的にこの『三大秘法抄』の戒壇論に関して、日蓮の門弟たちが師の無念を思い、独自に戒壇論を構築していく過程で、それが日蓮の遺誡のように誤読されていった可能性は大いにあろうかと思えます。
『三大秘法抄』は中山日常の目録にも、中山日祐の目録にも存在していません。戒壇建立への師匠日蓮への思いが次第に遺言へと歴史的に変化し、それが中山系教団の門弟たちに伝えられていく過程で、それが日蓮の思想であるかのように変化して生まれた可能性があると考えています。
『三大秘法抄』に関する歴史上最古の言及は、実は北山本門寺の三位日順による『本因妙口決』です。富士門流にも日興の著作に富士山を「本門寺の戒壇」とする思想が示されています(『三時弘経次第』等)。
 
 
 
 
参考文献
岡田栄照「三大秘法稟承事について」『印度学仏教学研究』第19巻1号所収、1970年